藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

志はあるか。

人は根源的な欲求は捨てられない。承認されたいし、出世もしたい。頭がいいといわれたいし、仕事ができるといわれたい。
結局のところ、心の奥底まで問い詰めれば、私はそういった自己欲求を満たすためだけに全力で努力していたにすぎないんだ。
なんということだろう。

いわゆる「自己目的化」だ。
考えの中心が「自分」ではなくて「他人との関係」にある。
他人の評価とか、テストの成績とか、出世とかが「自分自身である」と思い込む。
そういう尺度でひたすら努力をする人をたくさん見てきた。
自分は将来の怠け癖か、そういう努力に血道をあげる気にはなれなかった。
半ば(自分にも)呆れて周囲を見ていたように思う。

私は、留学前、同じ組織にあって同じような仲間と志を一にして切磋琢磨してきた。みんな、驚くほどに仕事に貪欲だし、そしてまた勉強するのだ。資格試験、語学勉強、読書、プライベートのビジネス集会、私費での夜間MBA等々、皆、間違いなく優秀だし、志が高かった。
ここで問いたいのは、その努力や目標はどこを向いているんだろうか、ということだ。無論、先に出たような“欲”がだめだとは言わない。でも、それが、とある会社での出世、なんだとしたら何かあまりにも画一的であり、また漠然としすぎていないだろうか。世界は広い。もっと広い視野をもって明確な“自分がこれをやりたい”を持つべきじゃないだろうか。

こんな簡単なことを。
こんな当たり前の話を、日本人はみんな「見て見ぬ振り」をしているのだとしたら、恐ろしい集団だ。
この"カルトな集団"からは一刻も早く距離を置いて「本来の自分」と向き合わねばならないと思う。
若い人ほど。
50,60になってからでは少し遅い。
若い人にこそ目を覚ましてもらいたいと思う。

東大・京大・早慶→一流企業のエリートが「日本ヤバイ」と言う理由
「衰退傾向にある日本」という課題

「衰退傾向にある日本の半導体産業について分析しなさい」
これは、「私」が通うアメリカのMBA経営学修士)プログラムの企業戦略論という授業の期末試験で実際に出題された問題だ。
ちょうど東芝のメモリ事業売却に関する報道が盛んになされていた時期ではあったが、明確に「衰退傾向にある日本」と書かれていることに、日本人として悔しさを噛みしめながら答案作成をしたことを覚えている。
さて、「私」と書いたのは、この原稿を作成している「後嶋隆一」というのが5人の日本人のペンネームだからである。2017年の秋、私たちは、南カリフォルニアを代表する名門、カリフォルニア大学アーバイン校のビジネススクールに同期生として入学した。これから始まるであろう厳しいビジネススクールの生活を目前に、同じく日本を母国とする仲間として、またライバルとして、お互いを意識し打ち解けるまでに長い時間は必要ではなかった。
そして、聞けば皆、日本ではいわゆる“エリート”と呼ばれる経歴を持つ者ばかり。一流大学(東大、京大、慶応、早稲田)を卒業後、大手企業の最前線で戦ってきており、順風満帆のキャリアの中で満を持してのMBA留学といっても決して過言ではなかった。少なからず “日本を代表している”という気概を持ってこの留学に臨んでいたことは間違いがない。
そんな「私」が、MBA生活の中で打ちのめされたと聞けばどうだろうか。いい気味だ、よくある話だ、と一蹴する方が多いかもしれない。そういった意見があるのは承知の上だ。しかし、それでも今回、私たちはその経験を語る必要があると痛感した。そこで「後嶋隆一」という名前を作り、共同ネーミングでの執筆をするに至ったのだ。

「後嶋隆一」の名前で執筆するに至った5人。左から吉田氏、岩村氏、岡村氏、小川氏、半田氏。それぞれの経歴は「プロフィール」をご参照ください 写真提供/後嶋隆一
自分たちのような人材がもてはやされていいのか

MBA生活も四半期が過ぎ、最初の学期に終わりが見えたころ。学内で一番大きなビジネスコンペが開催され、そこに私たち5人が日本人チームとして挑戦することになった。そして、チーム結成を機に、昼夜学びも議論も共にするようになり、皆それぞれの苦しい体験や失敗について共有する機会が増えた。そして、個人の体験談や思いについて皆で膝を突き合わせ侃々諤々と議論する中で、様々な気づきが得られた。
そして、その気づきはもっぱら、我々の母国日本に対する「ヤバイぞ!」という危機感に他ならなかったのだ。 
不遜だと思われるかもしれないが、私たちは日本における教育、あるいは労働環境の中において、期待される成果を上げてきた部類に位置するといえる。(無論、それはすべて私たち個人だけの努力や能力の成果であるとは言えないが、そういった議論はここではしない。)日本において、優秀だ、エリートだ、と呼ばれてきたことは事実だ。そんな私たちが海外に出てきて挫折し、悩んだ。そして、とことん語り合ってみたら、こう結論がついた。
「私たちと同じような人材を、もてはやし、企業の最前線に置く日本は、本当にこの先、世界で戦えるのか」
誤解を恐れずに言う。日本が世界で戦うためには、今の日本の価値観のままではいけない。そして、それを知るために、あるいは変えるためには、一人でも多くの人が日本という島を出て自分自身の体験としてそのことを知らなければならないのだ。私たちは個人で体験し、さらに5人でとことん語りあう中で、ようやくその危機感にたどり着くことができた。だから、ここに実体験を通じてそのことを伝えたいと考えたのだ。
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「出世」を求めるのはもうやめだ!
私は何を目指していたのか?

「Hey Ryuichi, you are working for XX company, right? what will you do?
(将来、会社に戻ったら何がしたいんだい?)」
MBAで切磋琢磨するクラスメートとの何気ない会話が発端だった。MBAプログラムの最初の学期の終盤、一番大きなマーケティングのプロジェクトをまとめ上げるために遅くまでミーティングルームで一緒に作業をしていた同じグループのアメリカ人からの問いかけだ。
「そう、俺は社費派遣で来ているからね、とりあえず会社には戻る。でも、残念ながら復帰後の仕事は決まってないんだ。おそらく事業戦略や営業企画なんかで組織を回すことが期待されていると思う。そういうの、将来的に会社を運営するには必要な経験なんだよね。まぁでも、端的に言えば、“何でも屋”だよね。ははは」
疲れからか、慣れからなのか、夜も10時を過ぎたころのあの妙な高揚感の中で、自分の置かれた立場を少し皮肉っぽく表現して見せたつもりだった。
「Ha ha, that’s good.(はは、それはいいね。)」
彼の表情は穏やかながらも、明らかにはてなマークがいくつも浮かんでいた。総合職や終身雇用、MBA社費派遣制度といった日本独特のビジネス文化に対して、アメリカ人の彼がどこまで知っているかなど考えもしなかった。はっと我に返り、とっさにこちらから問いかけた。
「君はどうなんだい?なんでまたMBAに来たんだい?」
「自分の志」が具体的にあるのか

彼は熱を込めて語ってくれた。
「僕はファイナンスでやっていきたいんだ。MBAファイナンスに関するスキルや知識を磨いて、さらに高みを目指したいんだ。
正直さ、コアにしているファインス関連の授業以外の成績がAだろうが、Bだろうがそんなのはどうでもいいと思っているんだ。勿論、どの授業にも真剣に取り組むし、プロジェクトには自分の全力をかけて臨もうと思う。そこから学ぶことも多いだろうし、同じクラスメートの足を引っ張ろうとは思わない。
だけど、総じて優秀な成績を収めることは僕がMBAに居る理由じゃない。いろんな人とコネクションを作って、いい仕事を見つけて、自分が志したファイナンスの分野で一流になりたい。それが僕がここにいる理由なんだ」
彼は昨年結婚したばかりの26歳の青年だ。自分と比べて5年以上も若い。しかしながら感じるこの成熟度の差は何だろう。彼には志すものが確かにある。そして、私にはない。漠然と優秀な成績をとるために今このプロジェクトを頑張っている。間違ってはいないはずだ。だが、目の前に座る彼との間に感じる圧倒的な距離感は何だろうか。
「いや、すごいね。」
そう返すのが精いっぱいだった。自分の志について誤解されてるんじゃないかと恐れる気持ちがあったのは確かだ。成績の話とか、日本では大規模な企業には社費で社員を派遣する制度が多くあり、MBA留学の多くはそういう社員であるとか、その後も取ってつけたような話をしたような気もする。だが、正直、以降の会話の記憶があまりない。
それよりも、その瞬間に私の心中を占拠していたのは、ふとこぼれ出た自分の“本音”と向き合う中で、“俺は一体、何に向かって頑張ってたんだろう“という、自分のキャリアに対して湧き出た疑問であり、欺瞞であり、また違和感であった。一刻も早くその場を立ち去りたかった。

「出世」を求めるのはもうやめだ!
「成功」とは何なのか

深夜に、そんな自分の気持ちを落ち着けるためにMBA入学のためのレジュメ(履歴書)を改めて見つめる。そこにある経歴は確かに輝かしい。でも、そこに決定的に欠けていると発見したのは、 “自分の意志”だった。自分は人生の大半をかけて何を成し遂げたいのか、もっと単純に、何に興味があるのか。そういう単純明快な目指すべき場所が感じ取れない。

後嶋隆一「5人」が出会ったビジネススクール。ここで自分たちは「これだとヤバイ」を実感した 写真提供/後嶋隆一
ここにある経歴は、今自分が所属する会社という中で、成功するという意味においては、輝かしい。勉強、会社、あるいは社会という一定のルールの中においてうまくやれる、という点においては十分すぎる勲章だった。だけど、その先がない。
人は根源的な欲求は捨てられない。承認されたいし、出世もしたい。頭がいいといわれたいし、仕事ができるといわれたい。結局のところ、心の奥底まで問い詰めれば、私はそういった自己欲求を満たすためだけに全力で努力していたにすぎないんだ。なんということだろう。
「また随分と恥ずかしい話をさらけ出すではないか。こんな話、自分の心の中にしまっておきなよ、みっともない。 “エリート”なんていってるけど、所詮、“自称”なんだよ、後嶋さん。程度が知れている。もう時代は先を行っているよ」そういわれる読者もいるかもしれない。
日本のいわゆる古い企業文化や体質に捕らわれない、優れたビジネスリーダーが沢山出てきていることは勿論承知している。そういったリーダーを筆頭に日本社会も変わってきている。それは事実なんだろう。そういった点において、筆者として逆説的に言うのであれば、このコラムは多くのビジネスパーソンから嘲笑され、無視されれば、それが私にとっての本望だ。日本の現状を知らない、いち勘違い野郎のお笑い話で済むのであれば、それが一番いい。日本はこれからも安泰だ。
しかし、恥をさらけ出してまでこうして書いているのは、日本はずいぶんと変わってきているといっても、それでもまだ私と同じようなマインドセット(気持ち、考え方)をもって日々仕事に臨むビジネスパーソンが多いのではないかと疑っているからだ。

「出世」を求めるのはもうやめだ!
私は、留学前、同じ組織にあって同じような仲間と志を一にして切磋琢磨してきた。みんな、驚くほどに仕事に貪欲だし、そしてまた勉強するのだ。資格試験、語学勉強、読書、プライベートのビジネス集会、私費での夜間MBA等々、皆、間違いなく優秀だし、志が高かった。
ここで問いたいのは、その努力や目標はどこを向いているんだろうか、ということだ。無論、先に出たような“欲”がだめだとは言わない。でも、それが、とある会社での出世、なんだとしたら何かあまりにも画一的であり、また漠然としすぎていないだろうか。世界は広い。もっと広い視野をもって明確な“自分がこれをやりたい”を持つべきじゃないだろうか。
仕事を通して何を実現するのか。キャリア形成の主導権は会社でなく個人にあることを、ビジネススクールにいるとひしひしと感じる。キャリアにおける成功は人によって違う。あなたが今いる会社で成功することがあなたの人生のキャリアにおける成功のすべてではない。そう考えられる多様な人材と、それを受け入れる懐の深い社会になれば、日本はよりグローバル化する社会に良い意味で対応できるのではないだろうか。
英語の教育にも疑問

日本でも英語を身に着けることの重要性が広く認識されはじめ、学校だけでなく私の働く企業でも力を入れて取り組んでいる。しかし、日本人の多くは英語の真の重要性を分かっていない気がする。
小学校時代をアメリカで過ごした後に日本に帰国した、いわゆる帰国子女の私は、日本で英語力を評価するテストとして有名なTOEICTOEFLはどちらもほぼ満点を取得している。TOEFLについては過去スピーキングセクションで満点以外取得したことがない。はっきりいって、英語には自信があった。
しかし、アメリカに来てすぐに、自分の英語力が世界では全く通用しないことに気づいた。それは「英語を話せる」「英語を聞き取れる」だけが英語力ではなかったからだ。そのことを、私は重要な就職面接で撃沈したことで痛感した。撃沈の理由は、英語が話せなかったことではない。詳細は長くなるので割愛するが、私が面接官がもとめるアメリカの文化や消費者の選好を理解しておらず、きちんとコミュニケーションができなかったことだ。
大切なのは相手の懐に入るための「学問では習得できない英語力」とも言えるだろうか。英語の発音や聞き取り能力だけではなく、何より大切なのは英語を「使って」のコミュニケーションなのだ。「会話をする人の環境を知ること」が英語コミュニケーションの重要ポイント」と言える。これらは机で学べる英語ではない。
自分から動いて相手を知ろうとする態度こそがここでは求められる。これがグローバル化する社会で逞しく生きるために必要な素養だとすれば、正直に言って今までの私はその重要性について意識を払えてはいなかった。日本の英語教育が悪いとか、こうすべきとだかを言いたいわけではない。ただ事実として、日本国内において間違いなく「すごいね」といわれるレベルの「英語力」をもつ私はグローバルの環境におけるコミュニケーションの場で苦戦している。
私は企業という枠組みの中で上手く生きることやテストというルールで勝負することについては間違いなく得意なほうだと思う。しかし、それだけで本当によかったのだろうか。このコラムで語られる懸念が、私の取るに足らない杞憂であり、世の多くのビジネスパーソンにとって、一笑に付すものであれば幸いである。