藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

集団という狂気

 
*[歴史]過去に学べるか。
FTより。
人はなぜ集団を作るのか。
「人は他者とは異なり、特別な存在であり、自分なりに考え、感じ、生きていくことができるという権利を主張するため」

 だという。ようは自分個人のためだ。

そしてそのために「一人のリーダー」を集団の代表として扱うと暴走が起きるという。
 
記事にも書いてあるが、今の世界を見渡すと「大戦前夜」に似ているという。
いや100年前とは経済の規模が格段に大きいから、国同士の摩擦による危険性はもっと増しているのかもしれない。
グロスマンの「人生と運命」はナチスvsソ連・東欧が舞台だというが、当時よりはるかに情報が豊富な今が、また悲劇を繰り返すのだとしたら悲惨でしかない。
 
「戦争がもたらした悲劇を繰り返すな」という主張も大事だが、「そもそも何のための集団か」を問うていくことをしておかないとどこかで行動が破綻するのではないだろうか。
最近の世界中の様子を聞くたびに「集団の暴走」について驚くことが多いが、"個人が考える"ということを自分たちがないがしろにした途端に、狂気に向かって動き出しているのだとすると背筋が寒い。
 
将来のことはきちんと考えねばならない。
 
[FT]集団思考が生み出す悲劇
 
2019年9月26日 23:00
 

Financial Times

ロシアは、リベラリズムを重視してきた国とは到底いえない。だが先日、旧ソ連の偉大な作家ワシーリー・グロスマンが、「リベラル」の理想的な考え方について記述している作品に出合った。それは、これまで私が接した中で最も示唆に富む理想的なリベラルに関する著述の一つだった。右派も左派も今、とりつかれたように「集団の権利」を叫んでいるが、「個人の尊重」こそが何よりも大切だと説いたグロスマンの言葉は、この作品が書かれてから約60年を経ても、生き生きと差し迫って訴えてくるものがある。
 
グロスマンの小説「人生と運命」を読んでいなかったら、ぜひ読んでほしい。舞台は第2次大戦中の激戦地として知られるロシア南部スターリングラード(現ボルゴグラード)で、ナチス・ドイツ軍の侵攻に耐えるソ連と東欧諸国の話だ。小説は1960年に完成したが、スターリン主義に対する痛烈な描写に危機感を募らせたソ連指導部の抑圧を受け、彼の死後16年たった80年にようやく出版された。以来、グロスマンの最高傑作として高く評価されている。
 

重要なのは個人の自由を確保すること

「人生と運命」はトルストイの「戦争と平和」とよく比較されるが、これら長編小説には確かに共通点がある。いずれもそのスケールの大きさとテーマという点で似ており、登場人物がスターリンやナポレオンなどの実在した歴史的人物と関わりを持ってストーリーが展開される点でも似ている。双方とも、物語に大きな哲学的思考を織り交ぜている点も共通する。
 
戦闘準備を進めるソ連軍の戦車部隊を描いた章の最後に、グロスマンはこんなことを書いている。「人間が集団を作る主な目的は一つだ。つまり、すべての人は他者とは異なり、特別な存在であり、自分なりに考え、感じ、生きていくことができるという権利を主張するためだ。この権利を勝ち取ったり守ったりするために、人々は集まるのだ」
 
だが、これが時として「悲惨な致命的過ち」を招くとも言う。すなわち「人種、宗教、政党あるいは国家という名の下にみんなが集まり協力して集団を作ることが人生の目的そのものだと思い込んでしまうことだ。本来、最終的な目標を達成するための手段にすぎないはずなのに」。グロスマンにとって戦争や政治の唯一の正当な目的は、個人の自由を確保することだった。
 
「人生と運命」は、スターリン主義とナチズムが、「労働者」または「アーリア人」という集団のために、という大義名分のもと、個人にいかに悲惨な害悪を与えたかを描写している。だがこれらのグロスマンの言葉は、当時よりはるかに穏やかといえる今の時代にも通用するという意味で私に衝撃を与えた。今、個人の権利よりも集団のアイデンティティーを重視する政治思想が再び台頭しているからだ。国家主義的な右派も、革新左派も、アイデンティティー政治へと傾いているからだ。
 
米国ではトランプ大統領が、イスラム系やメキシコからの移民を非難し、白人至上主義的なナショナリズムをあおることで支持基盤を掘り起こした。欧州の極右も同じ傾向を見せている。フランスの作家ルノーカミュをはじめとする影響力ある思想家たちは、数百万人におよぶイスラム系移民の流入により欧州の白人文化が消滅の危機にさらされる「大置換」という陰謀説を世に広めた。

 
ニュージーランドの銃乱射事件を起こした犯人は、反移民の主張を展開していた=ロイター
ノルウェーの連続テロ事件を起こし服役中のアンネシュ・ブレイビク受刑者や、今春のニュージーランドクライストチャーチのモスク(イスラム教礼拝所)で銃乱射事件を起こしたブレントン・タラント被告などの極右のテロリストらが書いた文書から、彼らが「白人大虐殺」や「文化的マルクス主義(編集注、西欧の資本主義を内側から破壊させようとするマルクス主義の陰謀)」に対し取り付かれたような危機感を持っていることが明らかになっている。
 

ハーバード大学の入試訴訟は興味深い例

左派のアイデンティティー政治にはテロリズムとの関連は見られない。だが米英の革新左派は、個人の平等な権利を強く主張するリベラルから特定集団の権利を重視する非リベラルへと変質した。こうした変化の原動力の多くは社会正義実現のための努力として称賛すべきだが、もたらされた様々な事態は、左派が好んで使う表現で言えば「問題がないわけではない」。
 
集団単位で捉える思考はどんな問題を招くのか。興味深い一例が、アジア系米国人を入試で差別したとして訴えられているハーバード大学だ。原告のアジア系米国人学生らは、同大学に合格するには他の受験生より平均して高い得点を取らなければならず、「人格などの個人的評価」の基準は曖昧で、減点されることが多いと訴えている。そして、こうした差別をすることでハーバード大学は、アフリカ系やヒスパニック系、卒業生の子弟など優先順位が高い集団からより多くの学生を入学させている、と主張している。

 
ハーバード大学はアジア系米国人学生を入試で差別していると訴えられている=ロイター
ハーバード大学は、それらの指摘は間違っていると反論している。たとえ人種差別だと認定されても、それはキャンパスの多様性を高めるという善良な動機による、と。問題は、ある集団を優遇しようとすれば、理論的には必ず別の集団を差別せざるを得ないということだ。今回の議論は、ハーバード大学が以前、ユダヤ系学生の入学を意図的に制限していた過去を思い出させる。今では恥ずべき行為だったとされているが、ユダヤ人を制限したことと今回問題になっているアジア系米国人学生を差別することに、どんな違いがあるのか説明するのは難しい。
 
この悩ましい問題は、多くの組織が陥りがちな罠(わな)といえる。本来、個人とは様々なアイデンティティーを持つが、その個人をある集団を代表する存在として扱うと、組織はこの罠にはまる。
 

生存競争をする意味は個人にある

集団の権利、反ユダヤ主義、差別の問題は「人生と運命」の重要なテーマだ。主要登場人物の一人であるユダヤ人の著名な物理学者ビクトル・シュトルムは、非常に優秀なもう一人のユダヤ人物理学者を採用しようとするが、ロシア民族を優遇する当局に阻まれる。この他にも作品では、多くの登場人物がソビエト体制下で好ましくない出自とみなされるがゆえに様々な問題に直面する。
 
一人ひとりの登場人物を階級、国、民族などの集団の典型に落とし込むことなく、それぞれがアイデンティティーを持った個人として生き生きと描かれているのは、まさに「人生と運命」といった名作がなせるわざだろう。グロスマンは「(人間が)生存競争をする真実にして永続的な唯一の意味は、個人にある」と強調した。
 
By Gideon Rachman