*[ウェブ進化論]精神から作る。
ジョブズの伝説は尽きることがないが面白い。
パラノイアと言われるほどの執拗さを持つ人物が、禅に行き着いていたとは深いお話。
i-Phoneのコンセプトが「集中とシンプル」という禅の精神にあったと聞くと、また東洋びいきもしたくなる。
(薪と燃えた灰を例えて)「その前後は断ち切れており、あるのは現在ばかりだ。人の生死も同じで、生が死になるのではない。生も死も一時のあり方にすぎないのだ、」
という道元の教えは、現代の自分たちにも怖いくらいに響く。
彼は禅をベースにさらに自分なりの解釈と実践を積み重ねることにより、新たな宗教をつくってしまったのではないかとすら思えてくる。数々の製品はいわば彼の経典だ。
なるほどです。
アップル信者というネーミングは言い得て妙だと思っていたが、彼の製品がどれも美しく人気なのは、デザインや製造の根底に宗教的な深みがもともとあったのだと納得した。
そうか、先にそっちがあったのだ。
スティーブ・ジョブズのシンプル思考と禅の思想【2】
死は生命にとって最高の発明――。こんな至言を遺した男の思想には、日本由来の「禅」が深く関わっていた。
死去前のスピーチと道元禅師との共通項
スティーブ・ジョブズ(時事通信フォト=写真)
ジョブズは76年のアップル設立の直後、会社をやめて日本の禅寺に入ることを、曹洞宗の僧侶である乙川弘文(おとがわこうぶん)老師に相談している。それに対し師は「事業も座禅をすることも同じだということがやがてわかるだろうから、事業をつづけたほうがよいと勧めた」という(マイケル・モーリッツ『スティーブ・ジョブズの王国』プレジデント社)。もしここで師が止めていなければ、のちのイノベーターとしてのジョブズは存在しなかったはずだ。
ビジネスの世界にとどまった彼は次々と画期的な製品を世に送り出したが、それらには禅の影響も見てとれる。もっとも顕著な例は、iPhoneのデザインだろう。それまでの携帯電話には英数字のキーボードがつきものだった。ジョブズは複数個所を同時に触ることができる静電式タッチパネルを採用し、ほとんどの操作を1枚のガラス板の上でできるようにした。iPhoneの登場で携帯電話のデザインは一変した。このように極端なまでに徹底的に無駄を省いたアップルの製品群は、シンプルで美しい。公私にわたり「集中とシンプルさ」を信条としたジョブズの真骨頂だといえる。
道元もまた、ただ坐禅をするだけでいいというきわめてシンプルな教えを説いている。これを「只管打坐(しかんたざ)」という。何のために坐禅という修行をするのか。道元は、悟りを得る手段としての修行を否定した。そうではなく、修行のなかに悟りを見、悟りのなかに修行がなければならない。道元はこれを「修証一等(しゅしょういっとう)」と表現し、修行と悟り(証)はひとつであるとした。つまり坐禅とは、修証一等の実践なのである。
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道元の代表的著書である『正法眼蔵』(岩波文庫など)の第1巻は「現成公案(げんじょうこうあん)」と題されている。現成とは「いま目の前に現れ、成っている存在」という意味だ。道元によれば、その現前する存在のすべてが悟りの実相だという(ひろさちや『すらすら読める正法眼蔵』講談社)。
「現成公案」には次のような話が出てくる。薪たきぎは燃えて灰になるが、だからといって灰は後(のち)、薪は先と見てはいけない。前後があるとはいえ、その前後は断ち切れており、あるのは現在ばかりだ。人の生死も同じで、生が死になるのではない。生も死も一時のあり方にすぎないのだ、と。こうした道元の教えを踏まえれば、病気になっても、早く治ってほしいと願ううちはまだ迷いがあるということになる。そうではなく、病気を現成としてそのまま受け取り、しっかり生きればよいと考えられるようになるのが悟りなのだ。
ここにはジョブズの死生観に通じるところがある。彼は2005年、スタンフォード大学の卒業式でのスピーチで、前年に膵臓がんの手術を受けた経験を語った。このときの「死は生命にとって唯一にして最高の発明」「あなた方の時間は限られている。誰かほかの人の人生を生きて無駄にしてはいけない」といった言葉からは、自分の生を、そして死をそのまま受け取ろうという姿勢がうかがえる。
黒いタートルは僧侶の作務衣だった
ここまでジョブズの仕事や生き方における禅の影響を見てきた。だが、彼の禅への接し方はいわゆる信仰とはちょっと違うように思う。伝記『スティーブ・ジョブズI』によれば、「一般的な教義より精神的体験を重視すべきだ」というのが彼の宗教観であったという。彼はまた「キリストのように生きるとかキリストのように世界を見るとかではなく、信仰心ばかりを重視するようになると大事なことが失われてしまう」とも語っている。
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曹洞宗の禅僧である南直哉(みなみじきさい)師の見方も興味深い。ジョブズは「禅の教えを自分の中でアレンジし、自分の生き方に資するよう咀嚼、吸収したと思う。必要なものだけを取り込み、必要じゃないものは取り込まなかった。彼は本質的には知野さん(乙川師――引用者注)の信者でも道元禅師の信者でもない。彼独自の生き方があった」というのだ(『スティーブ・ジョブズ100人の証言』朝日新聞出版)。
アップルが史上最大企業になるまで
また駒澤大学学長の石井清純氏は、ジョブズのトレードマークである黒いタートルネックのシャツと曹洞宗の大本山である永平寺の黒い作務衣とを結びつけている。作務衣とは本来、僧侶たちが作務(掃除などの作業)を行うときに着るものだ。石井氏はジョブズの黒いタートルは、自身の「行動」を禅の実践の一部として担保するものだったと見る。「その『黒衣』をもって、新たなパフォーマンスを発揮する製品を開発すること、それが彼なりの禅的自己実践だったように思えてなりません」(『禅と林檎』宮帯出版社)。
こうして見ていくと、彼は禅をベースにさらに自分なりの解釈と実践を積み重ねることにより、新たな宗教をつくってしまったのではないかとすら思えてくる。数々の製品はいわば彼の経典だ。ジョブズ亡きいま、わたしたちはそこから何を読み取り、つけ加えることができるだろうか。
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