藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

満たされた「先」の想像。


二十代まではその「モノ」を手に入れること、所有すること、と同じくらいそのものを買う勇気、というか衝動を充たす、ということが「物欲そのもの」に深くかかわっていたなぁ、と思う今日この頃。


かの松下幸之助翁は、「自分ですら百貨店のものすべてを買うのはムリや。全部品物を預けてあると思えばよろし。」とのたまったそうだが。


逆に「買う快感」に魅せられて衣服やアクセサリを衝動的に追い求め、まだそれでも足らずに借金してでも「モノを所有しようとする」人がいる。
よく「脳の満腹中枢が働いていない」と表現するが、「買いたい」という衝動が収まらないのだ。


一部の(それそのものが職業の一部である)芸能人とかを除き、そんなに豪奢な身なりをし、広すぎる家に住み、この世にもうあまり食べたいものなどないのだ、などとそれでも「まだ何か」を追い求めるのは、心が「飢餓の病」にかかっていると見える。


周囲の他人からは、意外にありありと見えているものだ。まああまり真剣に注意はしてくれないが。


それはともかく。


若いころには、若い人には、まあ普通にあっておかしくない「物欲」。

これはないものねだり、の相対感、つまり「感情」に支配されているのだ、ということも他人なれば、気がつきやすい。

というか、自分ではその時気が付かない。


などという「その辺」のことに私が気付いたのはここ最近のことである。(嘆)


たとえば、車が欲しいな、と思うと、何かにつけそのことばかりを考える。
次に外車か欲しいな、とまたすぐに思いは移ろう。


自分の手持ちのお金と、欲しいものが「<」の場合。
お金さえあればなぁ、と思う。
ところが「使えるお金>欲しいもの」となってみると。


案外欲しくない。
これは何か。

心に余裕が生まれるのだ。



なんだ。
たったそれだけの話である。


もっともそう思って見渡し、また回想してみると、確かにいたぞ。
「金持ちだが、物欲のない人」。


あれこそ文化かと思う。
バーゲンセールでつかみ合いをすることなく。
むしろ見た目の身なりは質素である。


そして目先の物的なものに拘泥せず、何か打ち込む趣味とか、お稽古ごととかに執心している。

感情的でなく、穏やか。
価値観が人格、にも表れている。


あわてない。(ビジネス、においては必ずしもいいことでもないが。)


モノでも、権力でも、お金でも、異性でも。

「欲しい」という感情が起こったとたん、その「感情」による支配がはじまる。

それが始まったことすら、当人には分からない。
ただ、感情の赴くままに、である。

だが自分たちは往々にして「望みが叶った瞬間」にその後の虚無感を感じている。
事前に思ったほどの「満足感の持続」はない。


もともと、そんなものだったのだ。
感情が高ぶり、その感情を満たすことこそ、最大の目的だ、と眩惑された。

もし、「その思い」が叶ったら。
ではその後はどれだけ満足か。

そのモノを買わずとも、自分は充分満足し、心は豊かな気持ちでいる。
そんな「仮定の気持ち」を想定できたら、人生はずい分余裕のあるものになるのではないか。

少なくとも、自分が十代、二十代で「そんな心のバッファ」を持っていたら、ずい分いろんな行動が違っていたのに。などと思う。


野心、といえばそれで仕方ないが、ずい分と「形式的なもの」を追いかけていたのではないか、と追想
こんな話を積み上げていける、ということが真の豊かさなのではないだろうか。


何か積み上がるだろうか。