藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

デジタル社会のレバレッジ


数週間前。
三菱UFJ証券の部長代理が持ち出した顧客情報見は148万件。
漏洩した本人の獲得した金銭は5万人分の名簿、33万円弱だという。

もうデジタル的な「数」の意味は今のネット社会ではあまり付加価値がない、ということを如実に語った事件である。


レバレッジ(leverage=影響力、テコ)。
数年前から、企業や公共団体のデータを保管するサーバーから、情報がコピーされ、流出している事件は頻発。
十年前と違い、どのpcもUSBという共通のポートを備え、またそのUSBメモリーには数ギガバイトのデータが格納可能で、しかも数千円。
大容量データ取扱い、の利便性は明らかにケタ違いで進んでいる。


一方。
そのデータのリソースである我われ個人の名前とか、住所とか、これは「性質上」全く変わらない。
国によって微増とか微減とか、まああるだろうが、デジタルの「乗数掛け算」に比べれば、静止しているようなものである。


情報化の意味。


そもそも、デジタル信号(二進数)のメリットとは。
そして「数とか桁数」を処理することについては、まったく「正確かつ超高速」なこと。だった。
これまでは「データの量」がその「持つ潜在力」を計るメジャーとしては一般的だった。


それが「ある面」から見た「データ量」では全然価値を持たなくなってきている。
デジタル化、の陳腐化である。


金融機関の信用情報とか、
区役所の住民票とか、
通販会社の顧客履歴とか、
婚活会社の顧客名簿とか、
警視庁の前歴名簿とか。


ありとあらゆる物がデジタルで取り扱われ、「データベース化」されている。
そこではただ「○○した人の集まり」と言うだけの意味が薄れているのだ、ということ。


より重要なのは、そのデータ保持者の「これからの人生設計」とか
「注目する考え、作家」とか
「趣味、思想」とかの「これまではごく親しい人との間」でだけ流通していたような、人の口つてで伝わっていたようなローカル情報だろう。
しかし、そんなローカル情報、こそ表に表出せず、流通しにくい。

と、こういうのをネット時代の「ソフト情報」と呼び、非情に貴重なものになる。


なので、ご提案。

マザー・D/Bを作ろう。


折角のデジタル。
折角のコンピュータである。
運用の技術的なプランは、極力「不正利用」がないように考えてもらいながら。


バイラル、とかフレンドリーとか。
近所の噂とか、学校内での評判とか。
そんなものを「一元的」に管理してしまうDBは将来も存在しないだろうか。


学校とか、職場とか、友人とか、恋人とか、親子とか。
自分たちは大体そんな「コミュニティ」の中で生きている。
よほど変わっていも「マフィア」とか「サヨク」とか「幸福の○○」とか。
利害的、思想的、宗教的なカテゴリー、くらいの中での生活である。


それごとに一元的にデータを持ってしまえば。
「情報を一元把握されてしまうことへの危惧」に引き換えて、その利便性は想像を超える。
所得とか、
納税とか、
住所とか、戸籍とか、
学校とか友人とか、ご近所さんとか、先生とか、親子とか。


自分たちの色んな「生活の要素」があるところで管理されるデータベースになる。
結局デジタルの最大の恩恵はそこに集約されるのではないか。


いまネット社会のとば口での「デジタルの功罪」的な論調を聞いていて、ついその先を夢想する。

デジタルは、そのメリットを「徹底的」に利用し、逆側のリスクを同時にフォローしてゆく、という姿勢でないと活用し切れないのではないか。


昨今の犯罪や報道を見ていて、その先にはそんな議論があるのではないか、と思えてならない。
いよいよデジタルの誇る「スピード」が、その利用の叡智を人間に迫っているのかも知れぬ。


まあきちんと知恵を絞って、今回のイノベーションを乗り切ろうよ、というチャレンジング・スピリットであって欲しいな、とも強く思う。
人の知恵は、必ずデジタルデータを超える存在になるだろう、というのは自分の偽らざる予感でもある。


試行錯誤、失敗の上に、さらに立てるのは人間の英知なのだ、と確信する。
またそんなことが人間の宿命なのではないか、とも。


自分は運命論者ではないが、人と道具の関係、などを見ているとそんな感想を持ってしかたない。
常にダイナミックに動き、お互い「相手ありき」の関係で発展してゆく、そんな存在であって欲しいと思う次第。