藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

見晴らしのよい場所。


最近、若い人(十代)の悩みを聞いていて、ハタと気づいたことがある。
四十代の自分から見れば、いかにも幼い。

進学のこととか、家族のこととか、異性のこととか、友人のこととか。

『その人の心を占める「最大の問題」が、つまりその人にとっての「最大の問題」である』という鉄則があるとはいえ。

そして、そんな中でも現代特有かな、と思うのが「これから『成功』を志さん」としている若者の悩み。

(一方DVとか、性的虐待、の話などについては自分はnetを介してでしかない存在として、どうしようもない無力感を感じる。ヘタに何も助言できぬし、またリアルに自分にできることも殆ど無い。何のためにネットがあるのか、という無力感をむしろそんな声をもらって感じてしまう部分が最近は強い。)

悩みの焦点

これから自分が目指そうとしている一流の大学とか、一流の会社とかに「本当の成功」はあるのですか?

つまるところ、そんな声が多い。


彼らは決して子供ではない。
ごまかしは通じない。
今のリアルな社会を見て、大人たちに問うている。

あなたたちの幸せはどこにあるのか? と。


それに「真正面」から自分たちは答えねばならない。
しかも彼らの現実に則した説明になるように。


実は「そこ」には何もないかもしれない。
一流の大学とか。
一流の会社とか。
一流の人との付き合いとか。


厳しく言えば、「本当の成功」とか「真の幸せ」というのは、パッと決まるものではないのだろう。
そもそも成功したかどうか、というのはかなり主観的な見方の話である。
「幸せかどうか」というのも本人の価値観次第の目盛りで決まる。

結局は、そんな「誰か」が〇か×かの判定を下してくれる、「そんな」簡単なことは、社会では余りないのだ。
という話を伝えねばならない。


どんなに薄給でも、誇りを持って仕事をしている公務員の人を、自分は知っている。
どんなに厚給でも、気持はさもしく、ちっとも満たされていない金融機関の人も知っている。
家族が重い病を患っていても、ちっとも苦にせず笑顔を心から絶やさない人もいる。
傍から見れは恵まれているのに、周囲に感謝せず、常にトラブルを抱えている人もたくさんいる。

「成功はそこにあるのですか?」という問いそのものが、回答不能なのである。

世の中に一種類の成功などないし、またあったとしてもその方法を自分は知らない。


要は、大人とか、社会人、とか言っている人たちは、それ自体まだ「迷いながら」生活しているのである
従って偉そうに、学生諸君に対して「人生とは」という訓を語る立場にはない。


しかしながら「親子」という立場に立ってしまえばある程度のことを語らざるを得ないから、みんな何とか表現しているのだろう。


「素」に戻れば、自分たちは老いも若きも「今の人生」を失踪、じゃなく疾走する一人の人間でしかない。
つい若い人には「何かを語りたく」なり、また若者は「先人に何かを聞きたくなる」のだが、そこにはあまり大した解はない。


自分が自分の道に「解」をつけるのだ、ということが、とどのつまりなのである。