藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

あらゆるRPG。

とどのつまり。
と書いて「"とど"って何よ」と思ってもすぐにgoogle
ネットのこういう部分は偉大である。


『とどのつまりの「とど」とは、魚のボラのこと。
ボラは成長するにつれて、「ハク」「オボコ(クチメ)」「スバシリ」「イナ」「ボラ」と名前を変える出世魚でいろいろな呼び名に変化していくが、最終的には「トド」になることから、「トドの詰まり」とする説が一般的である。(中略)
とどのつまりは「とど」と略され、「結局」の意味で歌舞伎のト書きに多く用いられる。
<語源由来辞典より>』


まあそれはともかく。

先日「凡人なればこそ、"ある経験"を"早く経験すること"は何にも勝る価値がある」というようなことを書いた。

何でそんな気分になったのか、というと自分の年齢のせいもあろうが、最近ちょっとした争いごとに巻き込まれたことに端を発している。


畢竟「身内の内輪もめ」だったのだがそれでも「傍観者」でいることと、「当事者になること」とはまったく違う経験だった。
争いごとというのは、互いに言い分や目的があるために、なかなか「妥協」に至りにくい。
妥協する、というのは「思考にある種の余裕」のある場合にのみ可能なのだ、と改めて気付いたということもあった。


まだ十代のころに「内輪もめ」をする人たちを身近に見ていただけに、自分が当事者になってみるとその落差に驚いた。
傍目には「どうにか落ち着くだろう」と思われることなのだが、自分ではなかなか方向が読めない。
「自我が邪魔する」とでも表現するのか、「もっともいい展開」も「最悪の事態」も同等に起こりえるような気がして、妙に方向感、バランス感覚を失うのである。


挫折とか、喧嘩とか、「一度も知らず」に成年になり、結構人格も出来上がってしまってからショックを受けて「ポキッ」となるよりも、「若くしての経験」は実に貴重なものである。
特に並みの人間にはそうした「経験値」を上げてゆくくらいしか向上の道がない。
「賢者は歴史に学ぶ」とはいっても、机上の論では「地力」は付かないものである。(つづく)