藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

学校では教わらないこと。


例年、この季節になると学生さんの「就職関係」の相談がたくさんある。
私を雇って!という直截的なものもあれば「何とか内定を!」とか「世の中どうなってんの?」みたいな悲痛な叫びもあり、(不謹慎ながら)何だか見慣れた風景になってしまった。

何とか定期採用を!と望む学生諸氏には、つくづく「それ以外」は見えないのだな、とむしろ微笑ましくも感じたりもする。

また、就職相談ほどではないけれど彼女ができない、婚活の方法(女性が圧倒的多数)などの相談は一年を通じて恒常的な話題のようになっている。

んなことに年寄りぶって返事している自分もまごうことなき、「そんな中の一人」だった。

という話。御他聞にもれず。

意味なくブランド大学を志し、根拠の薄い上昇志向を持っていた。

もちろん若い盛りのことら異性への興味なども半端なく、「いい会社に入り、ああ、彼女が欲しい」と希求していた様子は、今相談をもらう方たちと全く重なるものであることに自分ながら驚く。

つくづく、「自分の現在の視界」にない世界のことはいわゆる「理解を超える」状態にあり、見晴らしの良い「山の頂上」からは見える景色が、登っている最中には皆目見えないのだ、ということを思い知るようである。


で、何がいいたいのか?

というと、「いい大学に進学する」とか「いい会社に就職する」とか。
同様に「彼女が欲しい」とか「結婚したい」という相談。
その「先が殆どない」ことなのである。
(まあ「若いからそれでいいのだ」ということは敢えておいておいて)

「総合商社に就職して、その先はどうするの?」
「彼女ができたらどうするの?」と聞いてもその先のプランは驚くほどぼやけている。
なに、自分もそんな一員だったのだから驚くことなどない。

ただ若い人達には「おおい。実はその先があるぞー」とだけ言いたいのである。

彼女や彼氏がただ欲しい、という時期には決して見えなかった将来は、「人と付き合いを始めれば必ず背負わねばならぬ業がある」ということである。


いわゆる「柵(しがらみ)」である。
ただ異性を求め、共に過ごしていればいい、という問題ではなくなる。
動物の世界と同じく、そこから先は「番(つがい)」になり、「その先」を引き摺ることになる。
若いころはは一途であり、刹那的でもあるから、なかなか「その先」には思いが至らない。
まあそれが青春の蹉跌、と言ってしまえばそれまでだが、「このこと」を年長者は若者にはっきりとは語っていないと思う。

婚活の先、とか就職の先、とか結婚の先、とか転職の先、とかリタイヤの先、とかそして受験の先、とか。

昔、一週間のカリキュラムの中には必ず道徳の時間、というのがあり、主に部落差別問題などについての話を聞いた記憶がある。
「道徳」という科目名ではその記憶しかない。


それから広く社会に出て行くようになると「人種差別」というのは非常に偏狭な視野の問題だということに気付いてくる。
知的レベルが真に上がれば上がるほど、人間同士の蔑視感情というのはなくなってくるように思う。
それはともかく。


今後の道徳の時間で教えねばならないのは、差別の問題ではなく、「人生の過ごし方」ではなかろうか。

どれをとっても「決まった正解などない」十代、二十代、三十代の過ごし方と、
これまた「公式のようなな成功」のない、四十代以降、
そして六十代からの生き方、などについての幅広い見聞と、価値観を若者に紹介してゆくような、教養の科目。

義務教育でのカリキュラムはいつも取り沙汰されるところだが、もっともっと小中高生には伝えねばならない本音があるだろうと思う。

それは、今の四十代以降が、モロに悩んでいる「人生のこれからのこと」についてではないだろうか。

自分たちに正解が見えないから、何も語らないのではなく、「今の自分たちの悩みは何か」ということをこそ若手に知らせていかねばならないと強く思う。


学校でやらないのなら、ブログでも出版でも、出来るところから始めるしかない。