藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

能力とは何か。


テキスト(文字)文化とは難しいもので、その文字が何を意味するのか、は人によって微妙にずれていたりする
日本語はその言葉の持つ雰囲気(ニュアンス)が実に繊細らしく、また英語もしばしば輸入されて日本語社会に組み込まれるので、その言葉がどのようにトランスレイトされるか、というのはしばしば話題になることも多い。


能力、といっても「運動の―」とか「思考―」とか前置される言葉にもとても作用されるし、「能力が高い」といっても「どの能力が高いか」ということは定義されにくい。


学生時代、特に日本の学生の能力の高低、などがよく国際比較され、それが日本の義務教育、大学教育などへの批判や提言につながったりするのは誰しも耳にするところですが、それはともかく。
社会人になって、仕事とか、生活とか、まあ「人生を生きる能力」ということを考える。

さらに、仕事をしてお金を得たり、新しいことを試みたり、転職をしたり。
友人ができたり、異性(同性?)と付き合ったり、先輩後輩との関係などもあるだろう。
趣味に興じたり、酒を飲んだり、何かお稽古ごとを始めたり、健康のために体を鍛えたり。

学生さん、から卒業したら、そんなことをしながら段々年を取ってゆく。
そんな社会人の能力、とはどんなものだろうか。

「学ぶ力」と「作る力」に大別されるように思うのだが、どうだろうか。

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ、という。
名言だと思う。


ただ、学ぶ力は、「アウトプットする力」がないと、なかなか表出しない。
永遠に学び、そのまま他界する、という結末は、ご本人は(その過程に)満足かもしれないが、勿体なくはないだろうか。
ただ日々アウトプット、ということを続けていても「学びの薄い」状態だと、その出てきた成果物は「中身の薄い」ものになる。
ということはインプットとアウトプットのバランスだろうか。
(つづく)