藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

自らの境遇を考える。

学生時代、特に十代の後半などは、心の成長の途上でもあるゆえだろう、いたずらに妙な閉そく感を感じているものである。
などと言うのは、そういう相談が多いから。
特に「大学の先の進路が決められません」とか「大学に行く必要があるのでしょうか」という若者が多い。
それだけ選択肢が増えているのだろうと思う。

皆、先の見えない中で、自分だけが何も考えられず息苦しい、といった気持ちが伝わってくる。

ところが、ちょっと角度を変えてみると彼らは"その実は"実に、「自由」なんである。
文化系・理科系これから何を学ぶ、とかいろんな職業や国に行ってみるとか、およそ拘束は何もない。
寧ろ縛られているのは「常識的なコースを歩まねばならない」という固定観念が異様に強いのである。

そこには「皆と外れた道を往く」ということへの"言われなき恐怖"が垣間見える。

こういった「ツブ揃い」の空気を皆が共有しているところが日本の強みかなぁ、と言う気も逆にしてくるが、今の時代、もう少し自分なりの人生、ということを考えてもいいだろうと思う。
欧米の人と話していると、逆に「人と違うことをすること」が、もはや自己目的化しているような人もいて、これはこれでちょっと極端だなぁ、と思うが、要はこれもバランス感覚の問題なのだろうと思う。

「そういうこと」を考える機会や習慣がこれまでなかったことが原因なのだ。
自分も全くそうだった。
「何を学ぶか」
「何を職業とするか」
まず"そんなこと"を考えるために、本を読んだり、アルバイトをしたり、年長者の話を聴いたりしてみればよい。
意外にそういう質問を受けたら、真剣に答えてしまうものである。
ということで、この手の質問には、

周囲の空気を見て、考えずに行列に参加するよりも、立ち止まって「まず自問せよ」と回答することにしている。

周囲の環境に流されなければ、自分が本来やっていきたいような分野、というのは冷静に考えられるし、またそのための思考錯誤を若いうちにやっていけば、そのうちに「自分なりの道」を見つける感性が身についてくるだろう。

一足飛びに「何になればいいか」というインスタントな回答を探すから、途端に周りが見えなくなるのは、若気の至りだとも思う。
刹那的に、カッコよく、「万人の受けのいい象徴的な価値観」が最高のものだという風に、自分たちの「常識」は感じてしまうものだから。

焦らず、時間は大事に。
山登りのように、一歩づつ。