藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

時間の燃費。

東京に住んでいて有り難いことの一つは、世界的なアーティストが頻繁にやってきて、片道30分もかからないような会場でライブコンサートをしてくれることである。
都内の有名な5,6のホールを守備範囲に入れるだけで、実に多くの演奏が手に入る。
昨年もほぼ月に一回、何らかのコンサートに行かせてもらった。
主にピアノの独奏だが、それにしても不思議なこと。

アーティストのいかんを問わず、自分が集中して聴いている時の時間の経過はすこぶる早い。
合計二時間半の演目が、すーっと終わってしまっている。
反対に、なぜか「終わりの時間」が気になって、何度も時計を見るようなこともあった。
不思議に、場内のお客を見ると、みな同じ様子である。
年末にはジャン・マルク・ルイサダのコンサートがあったが、異例に長いアンコールが演じられ、終演時間は10時になろうとしていたが、席を立つ客は皆無。
まさに音楽の魔法のような時間だった。

時間と気持ち。

さて。
楽しいことをしている時間は短く、嫌なことをしている時には長く感じる。
この現象は、これから社会人になってもずっと続く。
気の乗らない会議や学会に出席していれば、ずい分長く感じるし、また成果も出ないものである。
どうせなら、そんな時間を「楽しい時間にする工夫」を考えてはどうだろうか。

つまらないと思う会議でも、「"なぜこんなにつまらないのだろうか"ということを分析する実験中である」と考えれば、これはなかなか面白い材料である。
なにせライブの生材料だし。
講演会などでもこの試みは役に立つ。
講演者の、いわゆる専門家と言われて壇上に立つ人の「どこが原因で」これほど面白くないのか。
話し方が悪いのか、プレゼン資料がまとまっていないのか、話の組み立てが悪いのか。どれだろうか。
そして、もし自分ならどのようにして工夫をし、どこまで挽回できるだろうか。とか。
「まずオレだったら、冒頭でこの話をしてから、この資料を映し、それから昔の話をして…」と言うふうにパズルを作る様に考えれば、これはなかなか面白い材料になる。
唯一の正解などはないのだから。

ちょっと話がずれてしまったけれど。
時間と言うのはそれほど「体感速度の変化」に敏感なものである。
よく「あーあー、まだお昼前かよ!早く仕事終わらねーかなー」という人がいるが、あれは不幸である。
どうせ9-5時で働く、と決めたのなら「もう定時かよ。時間が足りねえ!」というような燃焼方式にして行く方が、本人にも良いし、また周囲にも良い。
学生の勉強でも、アルバイトでも同じである。

時間の経過は、万人に等しく与えられ、この世で最も平等なものである。というのは有名な格言。

だからどのような時間も、完全燃焼させてこそ人生が充実してゆくのである。
ダラーッと過ごしているな、と感じたらそんな「時間の燃焼の工夫」をぜひ考えてみてはどうだろうか。