藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

イジメ力。

生ける経営の神様、永守氏の記事より。
押しも押されもせぬ"モーター世界一"日本電産の起業のきっかけは、氏の小学校時代の「イジメと褒められた」というのが原体験にあるという。
意外。
意外なことが、人間の動機になるものである。

イジメ力。

永守さんの本コラムにも書いてあるが、不思議に「誉めてくれた記憶」よりも「虐げられた記憶」が強く記憶に残るものである。
一般には「他人に対し厳しいことを言う」ということの方がストレスなはずだが、やはりそういう「耳に痛いこと」を率先して後進にせねばならないのかもしれない。

「誉めて伸ばす」というのは最近のはやり言葉でもあるが、「できないことをはっきり言う」という教育法もあるのではないかと思う。
自分は、後輩には耳に痛いであろう「言いにくいこと」を折に触れて言うようにしている。
誉めることもよいが、「あえてマイナスの印象を覚悟してまで」の"欠点の指摘"こそが当人に重要なのだと思っている。

たまに出会えば「嫌なことばかりチクチク先輩」というのが、実は一番先輩らしいのではないだろうか。
「誉めつつも、決して甘やかさず。」
そんな年の取り方を心がけている。

人生を変えてくれた2人の先生  (永守重信氏の経営者ブログ)
2012/5/9 7:00ニュースソース日本経済新聞 電子版
私には人生の恩人と呼べる2人の先生がいる。しかし、それは「師と仰ぐ」ような良好な師弟関係ではない。ひとりは小学校の担任の先生で、私が一方的に恩人と思っているだけだ。相手は私のことを何とも思っていないだろう。もうひとりは大学時代のある恩師である。私が28歳で日本電産を起業し、現在の規模まで大きくすることができたのは、2人の先生のおかげである。今回のブログでは、まずは小学校の先生について書きたい。

日本の戦後はどこの家も実に貧しかったが、私の家は農家で父親を早くに亡くし、母親が働いて育ててくれた。小学校の担任の先生は、盆暮れに届け物をしない貧しい家の子どもを露骨に嫌った。授業で出された問題で、私がどれだけ「ハイッ」と手を挙げても、徹底的に無視された。誰一人答えられなくて、ようやく当ててくれて、正解を答えると「百姓の子どもが勉強ができて、何になるねん」と言われる。学校の帰りに友達と一緒に歩いていると、後から自転車で来たその先生は、その友達だけ後に乗せて行ってしまう。私の顔すら見ようとしなかった。


何よりきつかったのは昼食の時だ。私の弁当には白飯の真ん中に一個の梅干しか入っていない日が多かった。いわゆる日の丸弁当である。幸い実家が農家だったので米だけはあったのだが、おかずがなかった。恥ずかしいので、みんなに気づかれないようにフタで隠しながら食べていると、先生が来て「おかずもないのか」と教室のみんなにばらしてしまう。家に帰って母親に泣きつくと、次の日には母親が魚の干物を焼いてご飯の上にのせてくれた。


翌日それを食べていると、また先生が来て「今日は何を食ってるんだ」という。小さな声で「ええっと…魚です」と答えると、その先生は「おーい、こいつ灰食っとるで」と大きな声でみんなに言うのだ。母親は干物をワラの上で焼いてくれたのだが、その灰が白米のうえに黒く残っていた。まだ子どもだった私は、悔しさと恥ずかしさの入り交じった何とも言えない気持ちになった。帰って母親に言うと、母親は「負けたらあかん。中学校に行ったらちゃんと成績だけで評価してくれるようになるから、今は我慢しなさい」と、励ましてくれた。母親とこの先生は、私に反骨精神や闘争心を植え付けてくれた。


そんな先生がたった1度だけ私を褒めてくれたことがあった。理科の実験で、モーターをつくる授業があった。手先の器用さと工夫には自信があったので、なんとかうまくつくろうと頑張った。完成したモーターが静かに高速で回転するのを見た先生は「すごいやないか。お前のモーターがクラスで一番や」と言ってくれたのだ。私は驚き、そして本当にうれしかった。先生は他の生徒に、私のモーターを見習うようにとまで言ってくれたのだ。


その時の教室の光景は、今でも鮮明に覚えている。いつ思い出しても、胸にこみ上げてくるものがある。その後、私がモーターに強い関心を持って必死で勉強し、精密小型モーターで日本電産を起業したきっかけをつくってくれたのは、憎くて憎くてたまらなかった小学校の先生なのだ。それぐらい強烈な体験だった。この体験がもとになって、日本電産では、若い技術者や広報スタッフが事業所がある地域の小学校に出向いて簡単なクリップ・モーターの作り方を教えに行く社会貢献活動を永く続けている。

学校の先生が子どもに与える影響は計り知れない。小学校を卒業後、成績で「優」をくれたり、ほめてくれる優しい先生にもたくさん出会ったが、不思議とほとんど記憶に残っていない。しかし、もうひとり、大学入学後に出会ったある先生は、また違う意味で強烈な存在だった。この先生については次回のブログで詳しく書きたいと思う。