藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

近隣諸国の気持ち。

池上さんの講義録より。
交友関係をうまくするには、まず相手のことをよく知れ、とよく言う。それにしても自分は功利主義というか。
必要な事態になればあれこれと興味を持つ癖に、関係ないことにはからっきし力が入らぬ。
台湾や韓国などの歴史をいかに知らなかったかを思い知った。
リテラシーひくっ。(嘆)

で、それにしても数千年前からの日本、琉球、中国などの民族論はともかく。
日清戦争以降の俯瞰した流れはこの講義で一目瞭然。
池上さんのこどもニュースが好きでよく見ていたが、自分の知識レベルは子供なのかもしれないと思う。

さらに、それにしても台湾という一国の統治の体制が、いわば民族の対立の結果であり、また近代国家の統治のシステムは意外に「国際ルールありき」ではないことに改めて驚いた。

その中で最も経済成長の進んだ日本と中国の関係すら未だ綱の引き合いがありながら、日本、中国、台湾、香港、韓国、北朝鮮の極東諸国はこのブロック内でも様々な摩擦を起こしつつも「次第に一体化」してゆくのではないだろうかと思う。

特に大きすぎる中国がこれからも統治を続けるのか、本当の共和国化を遂げて連邦実のような形になるのかが極東の商店ではないだろうか。
そうなれば台湾や香港、韓国との関係もいたずらに統制ばかりではない統治のしくみに進化するかもしれないと思う。
尖閣諸島の報道写真の国旗にモザイクをかけている今の中国とは隔世の感があるが、それもここ百年の話、あと百年もすれば極東事情も随分変わっているのではないだろうか。

親日」の台湾が模索続ける中国との間合い
現代世界を歴史で見る(3)東工大講義録から

2013/2/11 3:30ニュースソース日本経済新聞 電子版
 東シナ海尖閣諸島について、中国と台湾が「自国の領土である」と主張しています。
 実は中国の主張には、もうひとつの意味があります。「台湾は中国の領土である」という主張です。
■中国と台湾、尖閣めぐる一致点
 中国政府は、尖閣諸島が台湾に属する島であるという見解を持っています。この点においては、台湾と変わりはありません。
 しかし、「台湾は中華人民共和国の一部である」から、尖閣諸島は中国のものである、という論理なのです。
尖閣諸島をめぐって中国と台湾の対立の構図が見えてくる(海上保安庁の巡視船に挟まれて航行する、中国の海洋監視船「海監27」。2012年10月2日)=共同
 2012年(平成24年)8月、香港の活動家が尖閣諸島に上陸して沖縄県警の警察官に逮捕される事件が起きました。このとき活動家たちは、中国国旗や台湾の旗(青天白日旗)を掲げましたが、中国国内の新聞は、台湾の旗が見られないように写真をトリミングしたり、赤く塗って中国国旗に見えるように細工したりしていました。台湾が独自の主権を主張することを嫌っているのです。
 2013年(平成25年)1月には、台湾の遊漁船と海岸巡防署(日本の海上保安庁に該当)の巡視船が尖閣諸島に近づいた際、中国の海洋監視船が接近してきたため、台湾の巡視船は、「ここは中華民国の海域であり、離れてください」と警告したと伝えられています。台湾側が、中国の主張や行動に不快感を持っていることが見て取れます。
 では、中国と台湾は、そもそもどんな関係なのでしょうか。ひとつの国なのか、2つの国なのか、それとも、ひとつの国とひとつの地域なのか。その歴史を知っておきましょう。
 かつての台湾は、日本の植民地でした。にもかかわらず、同じく日本の植民地だった韓国に比べて反日意識が極めて低く、むしろ親日の人が非常に多いのが特徴です。そこには何があったのでしょうか。
 日清戦争で、中国(当時は清国)に勝った日本は、1895年(明治28年)、「下関条約」によって、台湾を清国から割譲させます。当時の台湾は、人口が少なく産業もなく、清国政府にとっては「未開の地」。台湾の割譲は、清国政府にとって、それほどの損失とは考えられなかったのです。
 一方、日本にとっては初の海外領土。当時の日本政府は、台湾の発展に力を入れます。優秀な人材を大量に送り込み、「台湾総督府」を設置します。日本から派遣された台湾総督が「天皇の名代」として統治します。
 日本による統治には抵抗する住民もいました。日本は軍隊の力で鎮圧。1万人を超える住民が、日本軍との戦闘で死亡したり、日本軍に捕まって処刑されたりしました。
 日本の統治の特徴は、徹底した日本人化でした。日本語を徹底的に教え込んだのです。台湾の高齢者は日本語を話すことができます。李登輝元総統も、こうして日本語を習得したひとりです。
 その一方で、日本の統治は、台湾の産業発展の基礎も築きました。この点に関して、1997年(平成9年)に発刊された台湾の中学校の歴史教科書「認識台湾」(日本語訳名「台湾を知る」)は、次のように記述しています。
 「日本語はかえって、台湾人が近代的知識を吸収するための主要な道具となり、台湾社会の近代化を促進したのである」
 「日本植民統治時期には、総督府が有効に熱帯感染症の防止と治療を行い、公衆衛生を強化し、また交通、産業、教育などを改善したことから、台湾の人口は長期にわたって高い出生率を維持し、死亡率は大幅に低下した」
いけがみ・あきら ジャーナリスト。東京工業大学リベラルアーツセンター教授。1950年(昭25年)生まれ。73年にNHKに記者として入局。94年から11年間「週刊こどもニュース」担当。2005年に独立。近著に「池上彰のやさしい経済学」(日本経済新聞出版社)。長野県出身。62歳。
 日本の植民地支配のプラスマイナスを冷静に分析した教科書によって、台湾の人たちは歴史を学んでいます。この点が、「愛国教育」の名のもとに「反日教育」を進めている中国とは大きく異なるのです。
 太平洋戦争で日本が敗北すると、日本は台湾を放棄。台湾は大陸にあった政権である中華民国に渡されました。
 中華民国は国民党の一党独裁でした。国民党の軍隊が台湾に進駐してくると、台湾の住民は、驚愕(きょうがく)します。読み書きのできない兵士が多く、軍も国民党幹部も腐敗していて、日本が残していった公有財産は山分けされ、すべて賄賂がなければ物事が進まない社会になってしまいます。
 台湾の住民にとっては、日本という支配者が去った後、大陸から別の支配者がやってきたのです。
 当時の中国大陸では、国民党支配に反対する中国共産党との間で内戦が続いていました。国民党政府は生活必需品を台湾で調達し、大陸に送ります。通貨も乱発。台湾では物不足が激しくなり、インフレが進みました。国民党政権になって、生活が苦しくなったのです。
 こうした住民の不満が爆発する事件が起きました。1947年(昭和22年)の「2.28事件」です。
 前日の夕方、台北市内の路上で闇たばこを売っていた女性が、大陸から来たたばこ専売局の取締官に殴られたのです。近くにいた人たちが怒って取締官を取り囲むと、取締官は銃を発砲。近くにいた男性が死亡しました。殴られた女性もまもなく死亡したのです。
 これに怒った住民たちが、翌2月28日に抗議行動を始めると、武装警察官は無差別発砲で応じ、住民3人が死亡しました。これをきっかけに、住民の暴動は全島に拡大します。これが「2.28事件」です。
国民党を率いた蒋介石中国共産党に敗れ、台湾を新たな拠点とした(中華民国を支配した故蒋介石総統<左>と夫人<中央>1942年ごろ)=AP
 これに対して、国民党政府は大陸からの応援を要請。3月8日、大陸から駆け付けた国民党軍による大虐殺が始まりました。
 どれだけの犠牲が出たのか、長らく不明でしたが、李登輝政権になってから初めて公式の調査が行われ、公式発表で2万8000人が死亡したとされています。ただし、ほかにも行方不明者が多数いて、実数ははるかに多いという見方もあります。
■国民党関係者200万人が台湾に移住
 この大虐殺により、日本の植民地時代に教育を受けた知識人多数が殺害されました。戦後の台湾を支える人材が不足することになったのです。
 日本に植民地支配されながらも反日意識が希薄なのは、日本が去った後の国民党統治の残酷さが影響しているとも言えるのです。
 中国大陸での共産党との内戦(国共内戦)に敗れた国民党は、大陸に逃げ場を失い、国民党が確保していた台湾に逃げ込みます。1949年(昭和24年)10月1日、毛沢東は北京の天安門広場中華人民共和国の成立を宣言しますが、このときはまだ内戦が終わっていませんでした。この年の12月、国民党の敗北によって内戦は終結。国民党関係者や中華民国政府幹部、兵士とその家族など計200万人が台湾に移り住みました。
 南京が首都だった中華民国は、台湾の台北を「臨時首都」に定めます。いつかは大陸に攻めのぼることを夢見て。
中国は朝鮮戦争北朝鮮を支援し、台湾問題を後回しにした(北京・天安門壇上で中華人民共和国の建国を宣言する毛沢東主席。1949年10月1日)=ANS・共同
 中国大陸の統一を果たした中国共産党毛沢東は、態勢を立て直して台湾を「解放」しようと考えていましたが、そこに起きたのが朝鮮戦争でした。北朝鮮を支援することになった中国は、台湾を攻撃する余力がありませんでした。
 米国も、北朝鮮を支援する中国をけん制するために台湾を守る姿勢を明確にします。台湾への援助を開始し、台湾は救われたのです。
 これにより、台湾には2種類の人が存在することになりました。もともと台湾に生まれ育った人たちは「本省人」と呼ばれました。「台湾省の人」という意味です。
 これに対して、大陸つまり台湾省の外からやってきた人たちは、「外省人」と呼ばれました。
 外省人によってひどい目にあった記憶の残る本省人外省人への不信感を持ち続けます。両派の対立が長く続くことになります。
 その一方で、外省人は、よそ者であるがゆえに、台湾の中でのしがらみが薄かったことから、農地改革など利権に切り込む改革が可能になりました。大地主の土地が農民に分け与えられ、自分の土地を持つことができた農民たちの生産意欲は高まり、農業が発展。自由貿易も順調に進んで、台湾はいち早く発展途上国から中進国に達しました。
 台湾が経済的に成功する一方、中国は、毛沢東の「大躍進政策」の失敗や文化大革命の混乱などで経済の停滞が続きますが、国際社会での立場は逆転するときが来ました。
 1971年(昭和46年)、国連(国際連合)の「中国」の座が、中華民国から中華人民共和国に入れ替わったのです。
■国連から台湾追放
 国連が成立したとき、中国といえば中華民国のことでした。国連の常任理事国の座も中華民国が占めていました。
中国は経済成長を背景に着々と海軍力を増強している(2012年11月に配信された中国海軍初の空母「遼寧」の甲板に駐機する「殲15」の写真)=新華社・共同
 しかし、台湾しか統治していない「中華民国」が中国全土を代表する政府というのは無理がありました。圧倒的面積と多数の国民を擁する中華人民共和国こそが中国の代表であるという国際世論が醸成され、代表が入れ替わったのです。
 これ以降、中華人民共和国と国交を結ぶ国が増えました。米国や日本も中華人民共和国を選びます。これに対して台湾は、中華人民共和国と国交を結んだ国に国交断絶で応えます。台湾は世界ですっかり孤立してしまったのです。
 国際的に孤立する中で、台湾は国民党による独裁政権が続いてきました。これも、1975年(昭和50年)、蒋介石総統が死去すると、次第に民主化への道を歩み始めます。
 蒋介石なき後、副総統のリリーフを挟んで、1978年(昭和53年)、蒋介石の息子の蒋経国が総統に就任しました。蒋経国総統は、国民党が台湾に逃げ込んできたときから出されていた戒厳令を解除します。さらに、外省人支配が続いてきた中で、自分の後継者に本省人李登輝を選びました。
 1988年(昭和63年)、蒋経国総統が死去し、副総統だった李登輝が総統に就任します。初の本省人のトップ誕生です。
 台湾のトップである総統は、それまで総統を選出する「国民大会」によって指名される間接選挙でしたが、李登輝総統は1996年(平成8年)から住民の直接選挙で選ぶ方式に切り替えます。この選挙で李登輝は圧勝。2000年(平成12年)までの4年間の任期を務めました。
 台湾の住民が直接選挙で自分たちの代表を選ぶ。このことに中国は神経をとがらせます。直接選挙で代表を選ぶということは、事実上の国家です。中国にとってみれば、中国はひとつであり、正統政府は自分たち。台湾が中国からの独立を図っているように受け止めたからです。
 中国は台湾への警告として、ミサイル演習を実施。台湾の東と西の海にミサイルを撃ち込みました。さらに台湾海峡の大陸沿岸で大規模な上陸演習を実施。「台湾が独立に動くようなことがあれば武力で阻止する」という明白なメッセージでした。
李登輝氏が総統直接選挙制を導入し台湾の民主化の道筋をつけた(選挙で選ばれた陳水扁総統<右>と李前総統。2000年5月20日)=AP
 これに対して米国は、2隻の空母を台湾周辺に派遣。中国をけん制しました。
 これ以降、中国は、台湾の独立を武力で阻止するためには、米軍の介入を防がなければならないと考え、海軍力の増強に力を入れます。独自の空母を持つようになるのです。
 台湾の民主化を果たした李登輝総統は、長期政権を維持しようとは考えませんでした。複数政党制を認め、野党も総統選挙で立候補できる体制をつくった上で、2000年(平成12年)の選挙には立候補せずに引退しました。自ら民主化を実践したのです。
 後継者選びの総統選挙で、野党の民進党民主進歩党)の陳水扁が当選しました。平和裏に政権交代が実現したのです。
 陳水扁総統は2期8年務めました。2008年(平成20年)の選挙では、今度は以前に政権を取っていた国民党の馬英九が勝利。2012年(平成24年)にも再選を果たし、大陸の中国とは異なり、民主主義が定着しています。
馬英九総統は中国との新たな関係づくりを模索している(2期目の就任式で演説する馬総統<国民党主席>2012年5月20日)=AP
 台湾は、大陸の中国とは、どのような関係なのか。過去に李登輝総統は、1999年(平成11年)、ドイツのラジオの取材に対し、「両岸関係(中国と台湾の関係)は特殊な国と国との関係になっており、中央と地方の関係や、ひとつの中国の関係でもない。すでに特殊な国と国との関係にあるため、あえて独立を宣言する必要はない」と発言しました。
 わざわざ独立を宣言しなくても、台湾は独立している、というわけです。
 一方、民進党は「台湾独立」を主張する野党でしたが、陳水扁が政権を取ると、「独立」に関しては口をつぐみました。ことさらに独立を語ると、中国を刺激するというわけです。
 これに対して、国民党の馬英九は、独立を一切口にしません。むしろ「中国はひとつ」という傾向が強く、選挙では「3つの不」(中国と統一しない、台湾独立を宣言しない、武力行使をしない)を掲げました。
 総統就任後の2008年(平成20年)には「三通」(中国と台湾の間の通信、通商、通航の開放)を実現しました。中国との経済的な一体化が進んでいるのです。
■台湾独立阻止へ「反国家分裂法
 対する中国は、2005年(平成17年)、「反国家分裂法」を制定しました。「国家を分裂させるような動き」(つまり台湾独立)があった場合は、「非平和的な手段を使っても阻止する」と規定しています。
中国の人民解放軍は次に何を解放しようとしているのか(建国60周年の祝賀式典でパレードする人民解放軍。2009年10月、北京の天安門広場)=ロイター
 中国の軍隊の名称は「人民解放軍」。人民を「解放」するための軍隊です。中国には、まだ「解放」すべき人民が残っているというわけです。それが台湾なのです。
 現在の馬英九総統は、学生時代、釣魚島(尖閣諸島)が台湾のものであるという運動をしていたことがあり、ときに反日的な言動をのぞかせますが、台湾全体では、親日的な人が多数いることで知られています。東日本大震災では、瞬く間に義援金が集まり、200億円を超える金額が日本に送られました。
 戦後、韓国人としての自覚を促すために徹底的な反日教育が施された韓国とは、同じ日本の植民地だった歴史があるにもかかわらず、まったく異なるのです。
 台湾には、かつての日本支配に郷愁を持つ高齢者がいる中で、若者たちの間には「哈日族」(ハーリーズー)が存在します。「日本が好きなマニア」という意味です。
 日本との間に長い関係の歴史がある台湾。中国との経済関係がますます進んで、飲み込まれかねない状態の中で、中国との関係をどうするか、模索が続いているのです。(敬称略)