糸井さんのコラムより。
大学受験のリアリティについて。
受かるとか、落ちるとか、そういうことで、
なにか一生の問題に関わるような気がしていた。
だいぶん浅いところで深刻な気持ちでいたと思う。
受かったらどうしようという夢想はあんまりなくて、
落ちたらどうしようということは、考えていた。
この五行に受験生の心情は表されていると思う。
精度的に「落ちたくない仕組み」である。
なぜ大学に行きたいか、という問いにも勝る。
だから受験突破が自己目的化してくるのだ。
漠然と「いやだ」とか「不安だ」とか
ネガティブな気分に覆われているだけだった。
そういう人間は、じぶんからなにかを打開できないから、
どうにもならなさが、つらかったというだけだ。
そして、同時に、そのつらささえも、
逃げていたぼくには、浅くてぼんやりしたものだった。
受験という大勢の認める制度へのやるせない気持ち。
けれど"それ"に関わらねば社会の一員でなくなるのではないか、という不安。
仕方なしにそれに取り組む自分。
けど結局そんなものに心底打ち込むことなどできずに「浅くてぼんやりしたもの」になるという描写はまったく共感する。
若者の多くはこの十行のセンテンスで救われるのではないだろうか。
というような思いで話はともかく。
自分に響いたのはここだった。
しかし、いまは、なーんにも思わなくなってしまった。
他人の結婚式だとか葬式だとかには、思うことはある。
それは人生の一大事だと、わかっている。
でも、「受験」というものについて、ぼくは、
まったくなにも思わない。
「当事者でない」って、えらく冷たいものだよなぁ。
「 「当事者でない」って、えらく冷たいものだよなぁ。」
当事者意識、とよく言うが"当事者か否か"で温度が全く違ってくる。
どちらも身近で起こっていることなのに取り組む姿勢もマインドも全く違ってしまう。
当事者でなければ、冷静だし、どこかよそよそしいし、建前論も前面にでてくるだろう。
当事者なれば「切実な思いとか発言」が出て、それが他人に伝わることもある。
結論、やはり当事者が問題の解決に当たるしかない、と思う。
けれども、そのためには部外者の冷静な意見とか、反対派の声、なども重要な材料なのだ。
当事者だからこそ、俯瞰してみるという難しいやり方が必要なのだろうと思う。
三十年前の「受験」ということからずい分と学ぶことは多いものである。
01月24日の「今日のダーリン」
・先日、福島高校で会った生徒さんたちは、
みんな高校一年生と二年生だった。
高校野球なんかで、三年生はいないというのはあるが、
学校の教室でふつうに出会う場面で、
三年生がいないというのは、
どういうことなんだろうなと思っていたら、
「センター試験」の当日なんだと教えられた。
「センター試験」というのがどういうものなのか、
実は、ぼくはよく知らないのだ。
でも、なんにせよ、それは「受験」ってものですよね。大学に進学するための試験を受ける‥‥。
このことに対する思いが、ほとんどなくなって久しい。
実際のところ、ぼく自身の受験の思い出というやつは、
ずいぶんといい加減なものだったけれど、
いい加減なりに、「受験」は一大事だったように思う。
受かるとか、落ちるとか、そういうことで、
なにか一生の問題に関わるような気がしていた。
だいぶん浅いところで深刻な気持ちでいたと思う。
受かったらどうしようという夢想はあんまりなくて、
落ちたらどうしようということは、考えていた。
「いやだなぁ」とつくづく思っていたと思う。大人になってから冷静に考えたら、
ぼくは完全に受験とか受験勉強から逃げていた。
逃げていた人間が、落ち着いていられるはずもなく、
漠然と「いやだ」とか「不安だ」とか
ネガティブな気分に覆われているだけだった。
そういう人間は、じぶんからなにかを打開できないから、
どうにもならなさが、つらかったというだけだ。
そして、同時に、そのつらささえも、
逃げていたぼくには、浅くてぼんやりしたものだった。
それにしても、「受験」についての思いはあったわけだ。
しかし、いまは、なーんにも思わなくなってしまった。
他人の結婚式だとか葬式だとかには、思うことはある。
それは人生の一大事だと、わかっている。
でも、「受験」というものについて、ぼくは、
まったくなにも思わない。
「当事者でない」って、えらく冷たいものだよなぁ。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
まぁ、人間、すべてに当事者であるはずもないんだけどね。