藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

夢見る力。


夢はありますか、と問われて金持ちになりたい、とか美人と付き合いたい、とか即座に答えていたのは二十代。
三十代になってちょっと考えたり。
四十代以降はそんな問いかけにも考え込む。
夢が無いのか、というとそんなことはないけれど昔みたいに際限のないそれこそ夢のようなことって段々口にしにくくなっている。
ビジネス家で世界制覇、という人もいらっしゃるがそれって夢というよりはビジネスの目標のようで、またいわゆる夢とは違っている気がする。
そもそも夢とは寝ているときに見るもので、物理的な制約が無いからこそ際限なく想像を膨らませて自由なものを考えられるわけだ。
現実生活で夢を問われて、自分の年齢とか周囲の色んな制約を考慮したりしているのはすでに夢を見る力が衰えているのじゃないだろうか。

とはいえ、絶対的な現実として年齢というのは存在する。
今から五十年かかるような夢は描きにくいのも現実である。
(夢は誰かが引き継いでくれるかもしれないけれど。)
小学生の卒業文集に私の夢、などと書いていたがあの頃は世の中に何があるか、とか知らなくてみんな総理大臣、とか野球選手とか書いていたが、社会人になってリアリティを持ってくると奔放な考えを巡らせて何かを考えるというとをしなくなってきた。
改めて「現実の今」をあえて考えに入れないで、そういえば自分が本当にやりたいことって何だったか?と考えてみるのはなかなか新鮮なことのような気がしてきた。

夢見るオッサンとか夢見るジジイとか、幾つになってもそんな方が生きてて楽しそうだと思うのだ。

・たいてい、人はそこに足りないものを夢みる。
 
 夢だったものが、すぐ近くにいつもあると、
 それは夢から現実という名のものに変化する。
 ほんとうは、なにもかもが現実なのにね。

 夢なのか現実なのかわからなくなりそうないいことは、
 そりゃぁもう、とっても最高にいいことだ。
 よくよくていねいにあつかってやって、
 その状態をできるだけ長くキープできたらと思う。

 夢なのか現実なのかわからなくなりそうなわるいことは、
 それは残念ながら悪夢ではなく、恐ろしい現実だ。
 気を失って逃れることになるのかもしれないが、
 それでは現実は変わらない。

 しかし、それにしても、
 あらゆるものごとは、あらゆる時間は、現実でしかない。
 このごろ、何度かこの「現実」ということについて、
 何行か書き出してはやめていた。 
 ほんとうは「現実」しかない、ということが、
 いまさらながら、すげぇことだなぁと思って、
 少々たじろいでいるという感覚がある。

 夢と現実とが両方いりまじって世界があるのではなく、
 ほんとうにあるのは現実だけなんだということが、
 怖いくらいにさっぱりした事実なんだよなぁ。
 現実のよく見えにくい部分を、人は夢で埋める。
 現実は、よく見えないところだらけだから、
 夢はなくなりはしないのだけれど、
 実際にあるのは、現実だけなんだよなぁ。
 
 そのことを知っても、現実を気に入っていれば、
 そんなにがっかりしたものではない。
 さらに、その現実は変わるものだし、
 変えていけるものだということを知ると、
 現実というものの、夢以上のおもしろさが見えてくる。

 現実とも思えないほどの現実を、
 ちゃんと観賞できるほどの気構えを持っていたいものだ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
なんだか、じぶんのメモみたいなこと書いててすみません。<<