藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

競争の外にあるもの。

WEBRONZA、山内正敏さんのコラムより。
競走のための競争、というのが自分たちの日常に蔓延しているのではないだろうか。

働きやすい環境は、ノルマが適量だからこそ可能だ。その秘訣は、研究対象の拡大を腹八分に収めているところにあると思う。(中略)
「それでは研究所は発展しないのではないか」という意見がでるかも知れない。だが研究所は発展していて、南極基地に人を送り込むようになったり、流星やオーロラ研究で北欧の予算申請の拠点になったり、欧州宇宙機関木星ミッションの主要観測チームにライバルを押しのけて選ばれたりしている。私が研究所に着任した25年前に比べればもちろん、2人目の女性教授が選ばれた15年前に比べても、着実に国際競争力を高めているのである。腹八分の発展を目指すからこそ、無理のない仕事で業績が上がりやすいのだ。

ビジネスの社会でも学問の分野でも「競争すること」は成長のためには不可欠だと言われている。
今に安住してていては発展はないと。
日常かなり無理をして「少し過大な目標を追いかけてこそ成長する」だから少し無理をしましょう、というのは自分たちの日常では半ば常識になっている。
「ユルい目標は悪である」という意識はどこかに染みついてはいないだろうか。

著者の言う「研究対象の拡大を腹八目に収める」ということが、引いては「持続的な力」であり、短期的な競争に勝るということかもしれない。
事業家もよく「過大な目標」をねらう。
いわば過大信仰である。
そしてその目標の実現のため、また「少し無理をするような」策を考える。
プロジェクトのスタッフにも少しずつ無理がかかる。
自分たちはどこか「そのくらいは必要だ」と思い込んでいるけれど、実は腹「六分目」ではなく腹「八分目」をきちんと持続的に目指せれば、その方が結果が良いということを考えてみる必要があると思った。

スパルタンに「もっと上へ、もっとやれ」という"スポ根信仰"は根強いものがあるけれど、実は長い目で見た視点というのも必要なのではないだろうか。
何でも「すぐに短期に」という思考に慣れすぎてしまっているのか?と思った。
腹八分目は社会においても金言なのかもしれない。

北欧で母親教授が多いわけ本当の意味での家庭との両立が、研究の発展につながる
山内正敏


スウェーデンのスペース物理研究所
 私の勤め先であるスペース物理研究所(スウェーデンで唯一の文部省直轄の国立研究所)で、今年ようやく女性教授の数が男性教授の数と同じになった。といっても女性教授が増えたわけでも男性教授が減ったわけでもない。女性教授が他大学に移ってしまって(引き抜かれて)、その結果、男1女1になったのである。後釜は埋まっておらず、部門長を所長が兼任している。所長こそ男性だが、それとて真っ先に推薦された女性教授が断ったために男性に回っているのだ。
 研究所はスウェーデン最北の都市(北極圏内)という地理的特徴を生かした地上観測と、宇宙探査という超長期的視野の必要な研究が主力であることから(日本の宇宙科学研究所と極地研究所の研究部門だけを足し合わせたようなもの)、理学と工学の中間の性質を兼ねている。従って、部門長(教授)には、科学者としての名声だけでなく、観測装置や、その設置・設計にもある程度の知識・経験のあるものが選ばれる。
 そんな研究所で、今まで女性教授の方が多かったのである。3年前に1人亡くなるまでは3人の女性教授がいた。この教授ポストは日本で時折みられるような「女性優先」ポストでは決してない。3人のうちの2人はスウェーデン王立アカデミー(ノーベル物理・化学賞の選考組織)のメンバーであり、3人目も独力で自分の分野を切り開いた人だ。さらに3人とも母親(子供は計7人)であって、日本のように「仕事か子供か」の二者択一を迫られたわけではない。
 日本では考えられない光景ではあるまいか。特に研究所の業務を考えるなら、日本に限らず、ほとんどの国で「オヤジ集団」を思い浮かべるだろう。だが、北欧は少し違うのである。
シーラ カークウッド(Sheila Kirkwood)教授。このころは小学生の子どもがいた=南極

 まず、工学の分野に女性が進出している。工学部の学生の2割が女性で、その比率がそのまま就業者の比率になっている。理学だともっと高く、北スウェーデン随一の総合大学であるウーミオ大では理工学の女性比率が学部・大学院とも4割を超える。更に高等教育を受けた女性が結婚出産を理由に仕事を中断することがほとんど有り得ない。16ヶ月の育児休暇のうち2ヶ月は父親専用または母親専用に割り当てられていて、さらにこの16ヶ月をほぼ半々で分担する家庭がかなり多いのである。だからこそ、母親が専門を極めることが出来るのだ。
 もちろん、だからといって女性教授が男性教授を上回る理由にはならない。むしろ地球惑星科学に従事する研究者の男女比からすると、当研究所の教授数は逆に女性に偏っていることになる。それは「たまたま」起こりうることではあるが、私はもっと必然性を感じている。
 理由は2つだ。第一に、教授になるような男性が都会を目指してキルナから離れたのに対し、彼女たちだけがキルナに残って頑張ったこと。第二に、彼女たちの元では研究がしやすく、自分が無理に教授になる必要がないと下の者が感じていることだ。その雰囲気を研究所長や外部評議会もわかっており、そのためかポストの新設が10年以上もない。日本だったら3年前に亡くなった教授の空きを(男性で)埋めるのが最優先だろう。
 まず前者だが、女性教授の1人は20年前にストックホルム大学から教授就任の誘いがあったのを、家族とキルナと言う環境を優先して蹴ったことがある。2人目もキルナという環境がオーロラ科学に必須であることから、教授になる前に王立アカデミーのメンバーになったのに、他に移ろうとしなかった。3人目も一家揃ってキルナに住んでいて、今回キルナを引き払ったのは、子育てが終わり、教授引き抜きの誘いのある街に夫(彼も研究者である)が新しい職場を見つけたからだ。結局のところ、教授の資質のある人のうち、母親組だけがキルナのような僻地に残った結果、女性教授が増えたという構図になる。
シーラ カークウッド(Sheila Kirkwood)教授=南極のスウェーデン基地

 次に、仕事環境の違いだ。工学系というのは世界中どこでも似たようなところがあって、今までの男性教授は「残業は当たり前、夜も家に仕事を持ち帰る」という感覚の持ち主だった。しかも、それを助手や学生に(無言で)期待するきらいがあった。もちろん日本の残業レベルとスウェーデンの残業レベル(せいぜい週10時間程度)は桁違いだが、それでも平均的スウェーデン人からみるとワーカホリックと言えよう。
 しかし、女性が教授になると話は違う。父母共に平等に子供の面倒を見るのが常識となっているスウェーデンだが、結局のところ母親の方が真剣で、残業を自ら減らし、下の者に過労を強いることはない。会議も出来るだけ短く済ませる。もちろん他分野には例外(強権的な女性教授)もいるらしいが、少なくとも当研究所では女性教授が働きやすい環境を作り、その影響を受けて、かつて厳しかった男性教授も下に過度な要求をしなくなった。
 もしも自分が部門長になって、ここまで出来るか? 答えは否だ。自身が多くの仕事を抱えるだろうし、その様子を見た助手なども、残業しなければならないと感じてしまうだろう。それでは駄目なのだ。プレッシャーを与える雰囲気を作らないことが肝要で、これは教授になれるぐらいに仕事のできる男性には困難だと思う。
 働きやすい環境は、ノルマが適量だからこそ可能だ。その秘訣は、研究対象の拡大を腹八分に収めているところにあると思う。少なくともスウェーデンで私が見る限りそうだ。予算申請やプロジェクト公募で男性教授だと「我がチームを強くする」という理由の元に応募してしまうような場合でも、女性教授だと「チームメンバーは過労にならないのか、そこまで無理して拡大する必要があるのか」と踏みとどまるケースが少なくない。
アスタ ペーリネン=ワンベリー(Asta Pellinen-Wannberg)教授=ソマシェルビ(Somasj¨arvi), Finnish Lappland

 ここで「それでは研究所は発展しないのではないか」という意見がでるかも知れない。だが研究所は発展していて、南極基地に人を送り込むようになったり、流星やオーロラ研究で北欧の予算申請の拠点になったり、欧州宇宙機関木星ミッションの主要観測チームにライバルを押しのけて選ばれたりしている。私が研究所に着任した25年前に比べればもちろん、2人目の女性教授が選ばれた15年前に比べても、着実に国際競争力を高めているのである。腹八分の発展を目指すからこそ、無理のない仕事で業績が上がりやすいのだ。
 そんな彼女たちにも悩みがある。それは「女性」という理由だけで、色々なパネルや審査員、会議の招待講演に呼ばれることだ。彼女たちにしてみれば、それ相当の役職に女性だからという理由で推薦されたいわけではない。この気持ちは身障者である私も良く分かる。身障者の科学者という色目無しに、純粋に科学者として評価されたいのだ。特別扱いは迷惑だ。
 しかし、現実には「形式男女平等」がはびこっている。例えば予算申請書の審査員候補として3人のうちの1人は女性を選ぶことが義務づけられている。私の分野の女性研究者比率は3分の1より遥かに少ないにもかかわらずである。私は毎回、申し訳ない気持で、忙しいであろう女性研究者たちの名前を書くのだが、それは男女平等とちょっと違うのではないのかという気がする。
 男女に大差はない。しかし、守るべき者(子供・部下)に無理を強いるかどうかという点では現実として大差がある。そして、そこに教授としての男女の資質の違いが現れる。
 女性を正しく活用するというのは難しい。特に日本では母親は専門を極めることすら困難だ。しかし、彼女たちこそ、まさに上司として相応しい存在である可能性が高い。嘘だと思ったら、体験してみて欲しい。