藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

人には括目して。

【×刮目】
かつ‐もく〔クワツ‐〕
[名](スル)《「刮」は、こする意》目をこすって、よく見ること。注意して見ること。刮眼。「―に値する」「―して待つ」

一方的な物の支配は、実はあまりカッコいいものではないということに気付くと今度は「モノ以外」ではどうだろうかと思う。
物は喋らないけれど、「人付き合い」はどうだろうか。

人間関係に貴賤はない、と思うけれど「価値観のあまりに違い過ぎる人間関係」というのも成立しにくい。
よく寓話に「王様と乞食」の話があるけれど、あれは互いが実は「釣り合った価値観を持っている」ことが多い。互いはどこかで分かりあえているのがコツだと思う。

優れた製品が優れた職人から生み出され、その使い手を選ぶのと同様に、「人対人」も互いに"噛み合うかどうか"が無意識に関係しているのではないだろうか。
色んな人と出会う機会は数多くあるが、互いにに心の交流が生まれるのは双方のレベルとか価値観とかが同調しているということなのだと思う。

つまり、新しい人と出会ったときとか、或は旧友と再会するときでも、ある程度「自分の波長と相手の波長の同期具合」のようなものがその後の人間関係を形作っていくのじゃないかと思うのだ。

肩肘張って難しいことを口にしたり、自分を誇張する必要はさらさらないけれど、自分が発する一言一言は、やはり「自分そのもの」を表現してしまっているのである。

そう思えば、あまり普段アホなことを思いつきでばかり話しているわけにもいかない。
物も人も一期一会で、心して対峙しなければならないものなのだ、と改めて感じ入ってしまう今日この頃なのだ。
とはいえ、何も考えないでバカを言い合える友人は、だから大切で心から楽しい存在なのに違いない。
(まだつづく)