藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

自分は外か。

ほんまもん、のリハビリなんて体験したことがないくせにリハビリの事を言うのは気がひける、けれどあえて言う。
東北の震災の直後と今を見て「5年」を一瞬で見ると復興という二文字のリアリティが感じられる。
けれどそれを一歩づつひたすら「リハビリしてきた人たち」はそのリアリティを実際に紡いできた人たちだ。

そして改めて「リセットの力」も感じてしまう。
つまりあれほどのことがないと、自分たちの日常ってリセットするのは難しいってことだ。
もう無理矢理、引き剥がされるようなことがないと「変われないこと」って実は日常にいーっぱいあるのだ、ということもキツい現実として思い知る。
リセットされた後はむしろ清々しいものだが、"自分で自分に幕を引く"というのはなかなかできないに違いない。

こうして極端な出来事を前にすれば「何かを感じる自分」は、一体日常の自分の何を変えられるのだろうか。
いつまでたっても「準備気分」じゃないだろうか。

 いやいや、まだ弱った体力が回復してない?
 そういう考えもあるかもしれないが、
 なにもかも万全で生きてる人なんて、どこにもいない。
 全国のみんなと同時スタートで、よーいドンだ。

結局人生は見切り発車ばっかりなのだろうか。

・あの3月11日から、5年。
 よくある言い方だけれど、長いのか短いのか5年、だ。
 ぼくの見ていた景色のことだけ言えば、
 やっぱり、少しずつだけど、ずいぶん変化している。

 自然が爪を立ててできた傷口が生々しくて、
 足を踏み入れられない場所もあった。
 その場に近づくだけでひりひりするようだった。
 やがて、傷口が傷跡になっていった。
 がれきと呼ばれていたものが、片づけられるまでは、
 目に入ってくる痛さもあったし、
 そこに暮らしている人たちも、傷を感じながら、
 なんとか前を向こうとしていた。
 がれきが片づけられたのは、大きかった。
 そのころからだろう、「遊びにおいでよ」だとか、
 「来てくれるだけでうれしいものだから」
 というようなことばが、素直に受取れるようになった。
 病室にお見舞いに行くときみたいな、
 なにかを気づかうような姿勢から、もっと自由になった。
 どういうふうにして、ここからなにかが育っていくのか。
 これから、どんな町にしていきたいのか。
 足元のことばかりでなく、未来のことを考えていく、
 そのことの手伝いができるようになって、うれしかった。
 そして、そのくらいの時期から、気仙沼の友人たちは、
 被災地という呼ばれ方を卒業したいと思った。

 しかし、実はそこからがほんとうの第一歩なのだ。
 被災地でない「ここ」は、どんな町?
 みんなが、よろこんでやって来てくれる町になる?
 どこにでもあるふつうの町のよさ、は、わかるけれど、
 どこにでもあるふつうの町なら、だれも来ない。
 そのことを怖がるのでなく、「上等じゃねぇか」と笑い、
 腕まくりしてなにを始められるか?
 そして、それはもうほんとに始まっているか?
 それを問いかける新しい時計がセットされているのだ。
 いやいや、まだ弱った体力が回復してない?
 そういう考えもあるかもしれないが、
 なにもかも万全で生きてる人なんて、どこにもいない。
 全国のみんなと同時スタートで、よーいドンだ。
 と、ちょっと威勢のいい保健室の先生
 みたいなことを言いたくなった今年の3月11日でした。
 
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
リハビリでがんばった人が、そのあとの日々をものにする。