藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

残したいこと。


先日、あるメーカー本社を訪問して、入り口に展示してある船とか人工衛星とかを見ていた。
どこかから見学者が「男の仕事って感じだねぇ。」と一言。
「男」という単語に込めた期待とか、こだわりとか哀愁とか見栄とか社会性とかがこもっていて可笑しかった。

外交官の故松田誠さんの記事。
こうして全身全霊をかけてしごとをする人の話を聞くと、全く自分のことが情けない。
仕事は「あるプロ」と思って妥協なくしているつもりだけれど、これほどの密度で、これほどのスピード感ではできていない。
全てがポジティブで勇気があって公平で、まさにリーダーというのはこういう人のことだと思う。

大きな企業を興すとか、政治や官僚の世界で偉くなるとか、色んな目標はあるけれど本当は「仕事を通して、どれだけのことを語れたか?」という松田さんのような生き方こそ本当の感動を呼ぶ。

ちょっと青臭いけれど、仕事の中で運動部のキャプテンや、登山部の部長のようにリーダーシップを爽やかに示せる姿には憧れる。
それにしてもあまりに惜しい人を亡くした。
英雄薄命。

ある外交官の半生 語り継がれる内々定学生への言葉とは

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■特派員リポート 坂尻信義(機動特派員)

 外務省で語り継がれている「檄文(げきぶん)」がある。

 2009年に入省することが内々定した学生たちに配られた。そこには、人事担当者が後輩たちに寄せた熱い期待と覚悟を求める言葉が記されている。

 「敢(あ)えて言うが、諸君は多数の志望者の中から選ばれた、どこに出しても恥ずかしくない立派な人材である。採用にかかわった我々は、外務省の幹部に対し、他省庁に対し、またひいては国民に対し、我々が選んだ君たち28名を誇ることができる」

 「諸君は既に『公的な人材』である。自分自身のためだけに生きるという人生は、もうすぐ終わる」

 「(前略)諸君には義務がある。国益の一部を担うに足る人材に成長する義務がある。常に謙虚さを忘れないことを肝に銘じながら、自己鍛錬し、人を率いていくために必要な能力と人徳を培っていく義務がある」

 A4判いっぱいに書かれたメッセージは、内々定者たちに「傲慢(ごうまん)なエリート意識」を持つことなく、「国際社会における日本の国益のために働くこと」を求めた。

 この「檄文」を受け取った同期の何人もが、パソコンや携帯に写しを保存している。そのうちの一人は「くじけそうになったり、流されそうになったりしたとき、この文面を見返して初心を思い返しています」と話した。

 これを書いたのは、当時、人事課の首席事務官をつとめていた松田誠さん。3月20日、都内の寺院で一周忌がとりおこなわれた。1年前、海外出張から戻って週末を過ごしていた自宅で倒れた。心不全。49歳だった。

 桜の花びらが風に舞う中、外務省の斎木昭隆事務次官は告別式での弔辞で、松田さんの死を「日本外交にとって、痛恨の極み」と表現した。この言葉は決して大げさに響かず、参列者たちは心の中でうなずいた。

 私が松田さんと出会ったのは、2003年。ともにワシントンに駐在していた。松田さんは条約局法規課員として日朝国交正常化交渉にかかわり、02年に当時の小泉純一郎首相が訪朝したときは、朝鮮半島を管轄する北東アジア課の中核として局長や課長を支えた。ワシントンに赴任するとき課員たちが成田空港で松田さん一家を見送ったこと、また、そうしたことは極めて珍しいことなのだと、あとになって知った。

 記者にとって、「ミスターX」と呼ばれた北朝鮮の高官との極秘交渉の内幕は、何はさておいても知りたい。松田さんに尋ねたときの返事を、鮮明に覚えている。

 ログイン前の続き「墓場まで持っていきます」

 笑顔でこう返されて以来、私は尋ねるのはやめた。

 父親を早く亡くし、「学生時代は極貧だった」と、むしろ明るく話した。奨学金を得て京都大学原子核工学科に進み、級友によると、2番目の成績で卒業、学士入学した経済学部は首席で卒業した。「国の支援で大学に進ませてもらったから、社会人として国の役に立ちたい」と外交官を志望した理由を語っていた。松田さんは「国益」という言葉をよく口にした。

 中学、高校時代は陸上の中距離で全国大会に出場し、京都大学陸上部では主将をつとめた。

 同僚らによると、松田さんはワシントン時代、北朝鮮の核問題をめぐる6者協議に日本政府代表団の一員として加わり、京大で学んだ核の知識を存分に生かした。ブッシュ大統領とケリー上院議員が接戦を繰り広げた大統領選では現地で培った人脈を通じた情報収集に加え、「半端ではない数学の知識と独自の確率計算」を駆使して的確な情報分析をおこない、ワシントンから東京の本省に発信した公電は「伝説と化している」という。

 お互い東京に戻っていた2010年に会ったとき、「アフガニスタンに行く(赴任する)」と教えられて驚いた。「志願した」と聞いて、さらに驚いた。「人事課にいたとき、後輩たちを彼らが必ずしも望まない現場に送り出した。だから自分は最も厳しい現場に行く」と、とくに気負ったふうもなく、淡々と語った。

 このとき私は心底、松田さんに畏敬(いけい)の念を抱いた。人間の大きさが違う。同い年ということもあり、ワシントンにいたときから、なかばふざけて「同志」と呼び合っていた。そんな自分の厚かましさや浅はかさを痛感した。

 カブールに駐在中、日本大使館にロケット弾が撃ち込まれたこともあったそうだ。でも、帰国後に会うと、どれだけ危険だったかを強調するのではなく、日頃の訓練がどれだけ大切かを力説した。いかにも彼らしかった。

 南西アジア課長として、13年末の天皇、皇后両陛下のインド訪問を陣頭指揮した後、14年夏にTPP(環太平洋経済連携協定)交渉を管轄する経済連携課長になった。関税分野の交渉官もつとめる重責だ。交渉は大詰めを迎えつつも難航し、決裂の可能性も取りざたされていた。その渦中での交代は異例だった。

 鶴岡公二首席交渉官は振り返る。

 「他国の物品交渉官で、交渉の途中に交代した人はほとんどいない。前任者の在任期間が5年になり、これだけ難しい交渉を引き継げる人は、そういない。松田さんが来てくれて、本当にうれしかった。ただ、交渉が真っ盛りの時期に専門家ばかりの中に飛び込んできて、各国と交渉する重圧は、並大抵ではなかったはずです」

 それまでの交渉記録にとどまらず、1035ページにおよぶWTO世界貿易機関)協定の全文を何度も読み込むなどして、驚愕(きょうがく)に値する早さで交渉の現状や日本、各国の事情に精通し、業界団体や関係省庁の担当者から信頼を勝ち得たという。

 このころ、「膨大な数の品目にそれぞれ番号がついていて。まったく知らなかった世界だ」と、楽しそうに話していた。ただ、頻繁に太平洋を越えて出張し、夜を徹しての交渉に臨み、帰国後も電話やテレビ会議での交渉は昼夜を問わず、課長として交渉全体を掌握しなければならない。私のような部外者にはうかがい知ることができない激務の日々を送っていたのだろう。

 15年に入っても、TPP交渉は参加する12カ国の交渉会合や日米実務者による協議などが、ハワイやワシントン、東京で断続的に開かれ、合意に至らず、再開し、という一進一退が続いた。日本の重要農産品である牛・豚肉の関税率、コメの輸入枠、自動車部品の関税などをめぐり、各国の国益が正面からぶつかり合った。

 鶴岡さんは「忙殺に忙殺を重ねていたのでは。ただ、そうしたそぶりを一切、見せない。責任感が人の百倍重く、手を抜くことを知らない。切り札といえる交渉官を投入してくれ、彼がいたからこそ合意できたといえる。しかし、大きな犠牲をともなった。本当の意味での殉職です。心から申し訳なく感じています」と語った。

 ちょうど1年前、ハワイ島での首席交渉官会合が最後の出張となった。夜のフライトで現地時間の朝に着くと、交渉の場に直行し、約2週間、睡眠時間が2、3時間という日々が続いた。それでも帰途の機中で、次回の交渉に向けた条文案を書き上げた。亡くなる数日前のことだ。

 昨年10月、TPP交渉が合意すると、鶴岡さんは米国から、家族ぐるみの付き合いがあった松田さんの妻・智子さんに真っ先に報告したという。

 今年2月、NHKがウェブサイトで「TPP合意にかけた或(あ)る外交官の死」と題して松田さんのことを紹介すると大きな反響を呼び、3月には地上波の「ニュースウオッチ9」でも紹介された。知らない人には異例に映るかも知れないが、生前の松田さんを知っている人たちは、さして違和感を覚えなかったはずだ。それほどの人だった。

 京大時代、陸上部で松田主将を支える主務だった弁護士の村尾龍雄さんは、日本のほか中国やミャンマーベトナムにも拠点を置く弁護士事務所を率いる。

 「つらいんですけれども、こう考えています。(松田さんは)この世での成功を享受するのではなく、その背中を見せて、彼だったらどうしただろうと考えさせて、影響を与えた同輩や後輩たちに道を譲る。自分ではなく、彼らをトップに押し上げる。完璧なやつだったからこそ、そんな気がするんです」

 松田さんの面接を受けて採用された職員の一人は「私は松田チルドレンです」と言った。入省後、仕事のことで悩んでいたとき、こんな言葉をかけられたという。

 「お前は出世に興味がないだろ。そういうやつも必要なんだ」。別の機会には、こうも言われた。「自分自身の力だけで、自分が主役のように仕事ができる時間は限られていて、あっというまに過ぎる。だから、まわりの人たちが能力を発揮できる環境づくりが大切なんだ」

 09年に入省した同期は、外務省が第一希望でなかった人数が例年より多く、多種多彩な顔ぶれだったそうだ。人事課で部下だった職員は、採用について「これ以上に重要な仕事はない」と言われ、「とにかく、明るくへこたれない、根性のあるやつを採れ」と発破をかけられたという。そうして採用した学生たちが外務省に入省後、国内勤務を経て語学研修のため海外に赴く前、壮行会を開いた松田さんは、こう語りかけたという。

 「外務省では、何度か一生に残る仕事ができる。俺の場合は、ふたつある。ひとつは、日朝平壌宣言にかかわったこと。もうひとつは、お前たちを採用したことだ」

 この言葉に心を打たれた一人は「松田さんの死を美談にしてほしくない」とも語った。

 なぜ、松田さんほどの卓越した能力と強靱(きょうじん)な体力の持ち主が、倒れなければならなかったのか。1年の歳月を経てなお、いっこうに喪失感が薄まらない。けれど、いつまでもくよくよしていたら、彼はきっと怒るだろう。告別式で花びらが風に舞った桜が、今年もまた咲き始めている。松田さんが同僚たちとまいた「種」ともいえる若く有望な外交官たちが、悲しみを乗り越え、きっと色とりどりの花を咲かせてくれるに違いない。

     ◇

 坂尻信義(さかじり・のぶよし) 機動特派員。1989年入社。香港支局員、アメリカ総局員、中国総局員、同総局長などを経て、2013年9月から現職。06年度のボーン・上田記念国際記者賞を受賞。共著に「紅の党」「奔流中国」(いずれも朝日新聞出版)など。