藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

真っ当な道。

外資企業の人と話していてハッとしたこと。

「日本では"問題解決"がテーマですね。欧米では「何が問題か?を見つけること」がテーマです。

ガラパゴスと言われる日本だけど、唯一誇れる「改善」。
これって「解決の工夫」だ。
そもそも「何が問題なのか?」を考える習慣が自分たちにないのだとすると、そこは補う必要がありそうだ。
しかもその方が問題が深い。

決まった枠組みの中で、問題点を探して解決する方がよほど具体的だから。
そもそもの前提とかフレームワークが「あるいは間違っているかもしれない」と言われると、考えねばならない範囲は可及的に広がる。
より広い範囲のことを考えるのは大変だから、ついつい「限定的」な思考を自分たちは求めているような気がする。

例えば政治なんて最たるものじゃないだろうか。
国の成り立ちとか、国民とか憲法とか、深く考えれば何千年もの課題がある。
そんな中で明日からの法律とかルールとかをどのように考えるか?というのはある種無限の選択に近いものがある。
「根源的議論は嫌われる」というけれど、そうした根っこの部分を問わずして皮相的な話をしていると、議論の前提がどんどんひっくり返ってしまう、ということを今の自分たちはよく経験している。

「すぐには結論が出ないテーマを延々と議論して考えを積み重ねること」は多分、思考には不可欠なことだ。

インスタントに「それ」を避けようとするから上滑りした議論の応酬になる。
自分の人生の選択もそうだろう。
「こうすれば成功する」「これで儲かる」「これが幸せだ」とhow toに終始するから翻弄される。
そもそもの意味を考える、ということを若い人に伝えることってかなり重要なのではないだろうか。
そして今の中年以降の世代も、今更ながら問い返す必要があるのではないだろうか。