藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

ガラパゴスも良いところ。


日本の江戸時代が他国でも「お手本」「エコシステム」と言われる。
いろんな文化も飛躍的に醸成されたし、やはり「安定した300年」というのは大きな意味があったのに違いない。

「知識や技術は海外では一部の人によって独占されることが多い。欧州の学者は長く、庶民には分からないラテン語を使っていた。ところが日本では殿様にならい、第一級の学者たちも中国語やオランダ語の優れた書物があれば、すぐに日本語に翻訳して広く伝えた」

「武器を作らなくていい時代」はよほど「その他の技術や文化」を伸ばすらしい。
現代の日本も戦後70年だから、あと二百年は無戦争でいてもらいたいものだ。

戦国の殿様たちは実用も兼ねて「立派な城」を築いたが、それも平和になれば必要なかったらしい。
そして車も「権力者のためのデカ過ぎるボディー」ではなく、庶民がリヤカー的に使い易い軽自動車が発達したという。

グローバル化とか、ガラパゴスとか、あんまりビジネスで日本の芳しい話は聞かないけれど、案外"紙と木と低エネルギー"の志向は「一周回って日本が先頭」に来るような気がするのは自惚れすぎだろうか。

日本のモノづくり 鈴木一義さんに聞く 「庶民のため」技術力の源泉 江戸から続く気質

 江戸の人たちは大変な知恵と技を持っていた

 「日本のモノづくりは優秀」とよく言われる。下町の中小企業が最先端のロケット、ロボットなどの部品をこしらえる。世界でオンリーワンの技術を誇る大企業も少なくない。そんな日本のモノづくりの源流には、この国特有の「人のため」に尽くす技術者の精神がある。国立科学博物館(科博)で長く江戸時代以降の科学技術史を担当する鈴木一義さんはそう語る。

 「私が大学の工学部に入った1970年代には、モノづくりは、今と違って悪だという風潮があった。公害が深刻でしたからね。私は『鉄腕アトム』を見て育った世代で、モノづくりで明るい未来に貢献しようと思っていたけれども反論できなかった。自分が進む道は悪なのか。モノづくりのルーツをたどって考えようと思い、1年生の時、江戸の茶運び人形(からくり人形の一種)を作ってみました」

 「各地で『からくり師』と呼ばれる先人のことを調べ、実際に茶運び人形を作って驚いた。私は現代の知識と技術で何とか作り上げたが、分度器もなかった江戸時代にあの動く仕組みや歯車をどうやって作ったのか。江戸の人たちはまさしく経験による大変な知恵と技を持っていた。茶運び人形は科博へ寄贈しました。まさか後年、自分で人形を管理することになるとは思いもしませんでした」

 鈴木さんは大学院修士課程を修了して大手メーカーに就職。技術開発部門で働き始めたが、プラザ合意(1985年)で急激な円高に見舞われ、自分たちの製品があっと言う間に利益の出ない状況になった。国際経済の変化にモノづくりの現場が翻弄される現実を体験した。

 「残業を繰り返して私自身、過労で倒れた。日本のモノづくりはこんなふうに技術者の死屍累々(ししるいるい)の上に成り立っているのか。この先どうしたらいいのかと考えさせられた。自分たちの未来を探るには、やはり日本人がどうやってモノづくりをしてきたのか、その歴史から学ばなければならないと思い、ちょうど天命のように誘いがあった博物館に入りました」

 科博に移って調査するうちにいよいよ鮮明に見えてきたのは江戸以降、無数の名もなき職人たちが担ってきたモノづくりのすごさだった。

 みんなのために作るから世界中で使える

 日本の職人や技術者たちは江戸以降、権力者のためではなく、庶民のために工夫してモノづくりをしてきたという。

 「江戸は260年にわたり、平和が続いた。殿様たちは戦争がないから、海外の権力者のように武器を作るために職人を独占することがない。職人たちは権力者たちの武器ではなく、庶民が使う鋤(すき)や鍬(くわ)を作るのに精を出したのです。それぞれの土地に一番適したものを作った。だから日本ほど鋤や鍬が豊かな国はない」

 「殿様たちは領地を繁栄させるために、一般の人々に役立つ知識をどんどん伝えていった。例えば水戸の徳川光圀は、御典医に命じて、草木などにどんな薬効があるか『救民妙薬(きゅうみんみょうやく)』という書物を編さんした。生きるために必要な知識がこうして与えられる。文字を読めたらその知識を得られるから、江戸時代の識字率は高くなったのだと思います」

 「知識や技術は海外では一部の人によって独占されることが多い。欧州の学者は長く、庶民には分からないラテン語を使っていた。ところが日本では殿様にならい、第一級の学者たちも中国語やオランダ語の優れた書物があれば、すぐに日本語に翻訳して広く伝えた」

 「こうして日本では世界中の選(え)りすぐりの良書を母国語で読めるようになった。こんなことは海外ではなかなか望めない。米国でも英語以外だと優れた先端の書物が読めるとは限らない。日本が明治以降、ノーベル賞級の科学者を輩出してきた背景には、こうした恵まれた環境があると思います」

 鈴木さんは科博の同僚らと一緒に、明治以降の技術者たちが庶民のためにモノづくりをした歴史に光を当ててきた。

 「大正時代、大阪などで人々は自転車にリヤカーを付けて荷物を運んでいた。そこに小さなエンジンを載せた。軽自動車の始まりです。2000年ごろ、私たちはトヨタ自動車と共同で1920年代に生まれた1000ccの『オートモ号』を復元しました。欧米では権力者のために大きな車が作られたが、日本ではこの車のように未舗装の狭い道を走れる小型の軽いものが作られた。みんなのために作るから世界中で使える。これが日本のモノづくりの強みです」

 「『人のため』という自分たちの原点は大事だと思う。セレクトされた良書を日本語でそろえてきたことも忘れてはいけない。私たちは日本人にしか分からない感覚も含めて、日本語で伝え合い、日本ならではの製品を作っていける」

 「日本には割れてしまった茶わんの破片を継ぎ合わせて使う文化もある。『もったいない』という日本語は海外でも注目されている。日本のこうした持続可能な文化やモノづくりの精神は、これからの世界できっと生きてくるでしょう」

(シニア・エディター 平田浩司)

 すずき・かずよし 科学技術史研究家。国立科学博物館産業技術史資料情報センター長。1957年新潟県生まれ。83年東京都立大大学院修士課程修了。メーカーの技術開発部勤務を経て、87年から同館の理工学研究部に勤める。主に江戸時代から現代までの日本の科学技術の研究に従事。著書に「20世紀の国産車」など。