藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

ルールだけの世界。

カジノ法案の一連の審議を聞いていて、一番心配なのは「大事なことを優先的に審議する機能」が廃れていないか、ということだった。

目先の「金をかけること」はわかりやすいが、そもそも「自分たちの時間の使い方」だって博打である。
「人生は最大のギャンブルだ」という人もいる。

すでに競馬も競輪もパチンコもある国で、新たにカジノを作っても大した問題ではないと思うが、そもそも「観光立国の目標」とか「地方も巻き込んだツーリズムのために」とか、重要な議題は鳴りを潜めている。

地方への交付金などもそうした「太い文脈」から流れていくべきだと思うが、議論は一向に深まらない。

会社を経営していて、今さらつくづく思うけれど、やはり「根本的なこと」を棚上げにしたまま色々と店を広げてみても、どうも地に足がつかない。

それは、多分「哲学」とか「理念」という少々面倒くさいカテゴリーの話になるのだと思うけれど、瑣末な「ルールの規制」だけではいくらやっても全てを網羅はできないだろう。

国の政治の場でも、もう少し深い話が応酬されて貰いたいと思う。
(つづく)

春秋
2016/12/3 2:30
 日本書紀には685年、天武天皇が博戯を見物したとある。すごろくなどだったらしい。当時は牛馬が賭けられたという。しかし、次の持統天皇の代には早くも禁令が下る。その後、つえで百度打つといった罰則も定まった。万葉の昔から賭博は人を惑わせたのだろう。

▼中世、ばくち打ちは特異な能力を備えた「職人」とされた。「負けが込んで来て、あるだけ賭けるというような相手とは勝負するな。向こうに勝機が移ったと思え」と引き際の戦略が徒然草に紹介されている。こんな戒めが今に残るということは、勝ちに酔って潮時を間違え、身を持ち崩した人もさぞ多かったに違いない。

▼「カジノ法案」が衆院の委員会を通った。成立すれば、施行後1年以内をメドに政府は必要な法制上の措置を取るという。数年後、日本のどこかにカジノが立つ可能性がある。競馬や競輪にパチンコと手軽なギャンブルがあり、依存症の疑いがある人は536万人に上る。そこへルーレットやカードを使う真打ちの参入だ。

▼大相撲の元関脇、貴闘力忠茂さんは、現役時代から競馬などに熱中し、ついに違法な野球賭博に手を染め、角界を追われた。家族とは離ればなれになっている。つぎ込んだ金は5億円にもなるそうだ。今は焼肉店経営の傍ら、講演で病気の怖さを説く。地域活性化の看板の下で、人々の将来をむしばまないように望みたい。