藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

合理性では真似できないところ。

ロジカルに物を見、計算し、訪れるだろう結果を予想して判断する。

こうした作業は「定型化」しやすいし、そもそものコンピューターの得意な分野だ。
運転だって法律だって、「お互いが曖昧なまま、その部分を残して」会話しようとするからややこしいのだと思う。

つまりロジックの解析が進めば人は要らなくなる分野だ。
人ってこれまでそういう「曖昧さ」を受け入れながら生活してきたのだ。

飛躍的にコンピュータが普及し、これまでは計算しきれなかったロジックが計算可能になれば「曖昧さ以外」の部分では人は必要ないだろう。
逆にロジックとビッグデータ(確率)で、これまでは「複雑系」とか「カオス」などと言われてきた分野では人の出る幕は減ってくる。

AI投資家は宝くじを買わないだろうし、日本国債も買わないだろう。

もしも、本当に人の知能が取って代わられるタイミングがあるとすれば、こういった「曖昧とか不合理」に対しての一定のロジックを持った時ではないかと思う。

あえて、「成功する確率の低い分野や商品や技術」に、負けを承知であえてする。
それを突き動かす「情熱」というものまでもロジックに置き換えなければ、こういう無茶はAIにはできないだろう。

人間ってそういう「理屈に合わない試み」をするところこそが「人そのもの」なのかもしれない。
文学や哲学でも、不合理とか不条理とかをテーマにしているものはものすごく多いけれど、「それこそが人間だから」ということじゃないだろうか。

そんな「無理」や「無茶」をするものこそが人なのだ、ということになればAIも"そこ"を解き明かさないと人にはなれない。
誰がどんな部分で、いつ「無茶を始めるか」というかなり鬱陶しい計算が必要だ。

(つづく)