藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

隠れた文脈。

幕末の話は好きだが、細かい史実には疎い。
それにしても坂本龍馬の最期については実に気になる。
日経のコラムに、あえて連載された本郷和人さんの文章は面白い。

まるで現代の刑事ドラマの推理のようだが、まっすぐな歴史への問いかけには考えさせられる。
歴史は「勝者の手」で上書きされるというが、果たしてどうか。
明治維新はともかく、今の歴史もどう記されるのかは実に気になる。
福島原発の事故などは、どんな記述になるのか、後世に伝えるのには検討が必要だと思う。

さて坂本龍馬
暗殺の経緯を見れば、著者の言うように「薩摩の関与」を今さら解き明かしてもらいたいところだ。
日本人には龍馬ファンは実に多いが、こうした史実にこだわっている人はあまり見かけない。
ぜひに新しい見識を披露してもらいたいと思ったのである。

桂早之助 龍馬を斬ったとされる男 本郷和人
権力は公明正大なばかりではない。時に「法すれすれ」「いやアウトじゃないか」。グレーな策謀を巡らすこともある。たとえば現代の国家は、国益の増進を目ざし他国の情報を入手しようと躍起である。過日もカーリングの女子チームが「〇〇国のイチゴはおいしい」と発言したら、そのイチゴを開発したのは日本だ、日本の農業技術を不当に持ち去った、という指摘が相次いだ。真偽は知らないが、生き馬の目を抜く情報戦があることは間違いないようだ。

こうした「情報・技術のグレーな移転」があり、その成果がA国の利益に結びついたとき、A国は「賢くやった」のか、それとも「国の信用を落とす」のか。どちらの評価もあり得るだろう。前者であれば、情報を取得する行為は「戦略、策略」となるし、後者であるなら、「汚いやり口、唾棄すべき陰謀」ということになる。

日本国内でも、同じような事例は見られる。たとえば幕末の薩摩藩。慶応3年(1867年)10月14日、徳川慶喜は大政を奉還した。このため、薩摩藩は幕府を武力をもって討伐する大義を失った。そこで西郷隆盛は三田の薩摩藩上屋敷に集めていた武士や浪士に、江戸と関東各地での攪乱(かくらん)工作を指示する。幕府側を挑発することにより、相手から戦端を開かせようと画策したのである。

浪士隊はゴロツキやばくち打ちを含めて数百人。彼らを指導するのは、薩摩の益満(ますみつ)休之助(きゅうのすけ)や伊牟田(いむだ)尚平(しょうへい)、下総郷士の相楽(さがら)総三(そうぞう)たち。江戸などで展開された彼らの不法な行動はまんまと図に当たり、ついに同年12月25日、江戸市中取締の庄内藩をはじめとする幕府勢力は薩摩屋敷を襲撃(このとき薩摩藩邸の浪士は200人との内偵あり)し、これを焼いた。この一件が発端となって戦いの火ぶたが切られ、鳥羽・伏見の戦いなどの軍事衝突の末に幕府は亡(ほろ)びていくのである。

万延元年12月(西暦だと1861年1月になる)、アメリカ総領事タウンゼント・ハリスに雇われた通訳、ヒュースケンが殺害された(オランダ人、時に28歳)。たしかに「攘夷(じょうい)」が国家全体の合言葉になっていたとはいえ、あまりに野蛮な行為である。その主犯が伊牟田尚平であった。彼は他にも外国人への傷害事件を起こしていて、お近づきになりたくないタイプの人間である。薩摩藩はこうした人間を選抜し、江戸を荒らし、戦争に持ち込んだ。

焼き打ちにあった薩摩藩邸を脱出した相楽総三は、このあと赤報隊を組織し、信濃の下諏訪で偽官軍として捕縛され処刑される。伊牟田は京都から急ぎ下諏訪へ向かったが、相楽を救うことはできなかった。その後、京都や大津の辻斬り強盗が彼の部下の犯行であるとされ、責任を負った伊牟田は、明治元年に京都二本松の薩摩藩邸で自刃した。どうにも口封じの匂いがする。また、伊牟田とともに清河(きよかわ)八郎(新選組にゆかり深い人物。策謀家で1863年佐々木只三郎(たださぶろう)らによって斬られた)の「虎尾の会」に名を連ねていた益満休之助は、同じく「虎尾の会」に属していた幕臣・山岡鉄太郎を助けて勝海舟西郷隆盛の「江戸無血開城」の談判の下ごしらえをした後、上野の山の戦いで流れ弾に当たって死亡した。その流れ弾がどこから飛んできたのかは判然としない。

このように、薩摩藩は「胡散(うさん)臭(くさ)い」ことに手を染めながら倒幕を成し遂げた。そこで坂本龍馬暗殺の一件である。坂本は大政奉還の1カ月後、11月15日に近江屋で殺害された。下手人が桂(かつら)早之助(はやのすけ)、今井信郎(のぶお)ら見廻組(みまわりぐみ)であることは定説となっている。だが、彼らに坂本殺害を命じたのは誰なのか? 黒幕は誰なのか? それがぼくにはよく分からない。

京都見廻組は、新選組と同じく、京都の治安維持にあたる警察組織である。ただし、見廻組の方が地位が上で、両者が共同して行動した事例はほぼないという。つまり見廻組はより幕府の政策や意志に敏感な存在であったはずだ。それなのに、なぜ彼らは坂本を襲ったのか。

有名な話だが、坂本は大政奉還を応援する側にいた。土佐藩は武力討伐を主張する薩摩藩との「薩土盟約」を解消してまで、いわば藩ぐるみで徳川慶喜大政奉還を献言(けんげん)していたし、坂本はそれを実際に担当していた後藤象二郎に「私は君の行動を支持する」と手紙に明言している。つまり、大政奉還後にあっては、坂本の存在は幕府と同じ方向を向いていたのであり、彼は幕府重臣の永井尚志(なおゆき)と面談をくり返しているほどであった。その坂本をなぜ見廻組が殺害したのか。ここに江戸での不法行為を敢(あ)えてして、鳥羽・伏見の戦いに持ち込んだ薩摩藩の関与を想定することが、なぜ不自然なのだろうか? これを陰謀史観の一語で片付けるのは、ただの思考停止にすぎないように思えて、どうにも納得がいかない。
歴史学者