*[次の世代に]こうなった理由。
内田樹さんのインタビュー記事より。
日本の高齢化社会の見通しについて。
高齢者にとって最も大切な生活能力は、他人と共生する能力です。理解も共感もできない他人とも何とか折り合いをつけることのできる力です。不愉快な隣人たちと限られた資源を分かち合い、共生できる力です。でも、そういう能力を開発する教育プログラムは日本の学校にはありません。ひたすら子どもたちを競争的な環境に放り込んで、相対的な優劣を競わせてきた。その同学齢集団のラットレースで競争相手を蹴落とすことで出世するシステムの中で生きてきた人間に高い生活能力を期待することは難しいです。
さらに「経済活動」について。
自分はこの部分が重い話だと思う。
内田さんの指摘のように「経済で人が成熟する」という感覚は今のビジネス界ではとても希薄だ。
なんとなく「金儲け」が目的そのものになってしまった。でも、プレイヤーに市民的成熟を要求しない経済活動というのは、人類学的には経済活動ではないんです。無意味だから。そんなのはただの時間潰しのゲームに過ぎない。そんなゲームは人類が生き延びてゆく上では何の意味もない。
その話が続く。
「失われた20年」と言いますけれど、日本が中国に抜かれて43年間維持してきた世界第2位の経済大国のポジションを失ったのは2010年のことです。バブル崩壊から20年近く、日本はそれでも世界第2位の金持ち国家だったんです。でも、その儲けた金をどのような国家的目標のために使うべきなのかが分からなくなってしまった。「腑抜け」のようになったビジネスマンの間から、「自分さえよければそれでいい。国のことなんか知るかよ」というタイプの「グローバリスト」が登場してきて、それがビジネスマンのデフォルトになって一層国力は衰微していった。それが今に至る流れだと思います。
腑抜けのようになったビジネスマン。
そこから「利益至上主義」のマシンのような人間が、確かに出現している。
内田さんの指摘は、鋭く続く。
金儲けの目標が自己利益と自己威信の増大だけでは、人間たいした知恵も湧きません。何のために経済活動をするのか、その目標を見失ったので、何をやってもうまくゆかず、どんどん落ち目になっている。悲しい話ですよ。
さて経済の目的も、改めて考えたいところだし、さらにこれからについて。
これから日本が闘うのは長期後退戦です。それをどう機嫌よく闘うのか、そこが勘所だと思います。やりようによっては後退戦だって楽しく闘えるんです。高い士気を保ち、世界史的使命を背中に負いながら堂々と後退戦を闘いましょうというのが僕からの提案です。
後退戦を楽しく。
こういうのが日本ぽいのではないだろうか。
内田樹が語る高齢者問題――「いい年してガキ」なぜ日本の老人は幼稚なのか?
「人口減少社会」を内田樹と考える#1
2024年には国民の3人に1人が65歳以上になり、先進国でかつてない人口減少社会を迎えるニッポン。問題は「人口減少そのものより高齢者の割合が激増すること」、「日本の高齢者は成熟していない=子どもっぽいこと」にあると、思想家の内田樹さんは指摘する。編著者として、『人口減少社会の未来学』を刊行した内田さんに訊く、「人口減少社会」を考えるインタビュー第1弾。
時限爆弾みたいな高齢者ビジネス
――人口減少にともなう社会の大きな変化は、まず何から始まるのでしょうか。
人口減少より先に実感されるのは、むしろ社会の高齢化の方だと思います。僕が小学生だった頃、日本の人口は9000万人そこそこでした。日本の人口がその水準まで減るのは2050年頃ですから、まだだいぶ先です。でも、数は同じでも、僕が小学生の頃とは街の風景がまったく違うはずです。高齢者が3割を超える一方で、子どもの数は僕が子どもの頃の4分の1くらいまで減るからです。街に子どもの姿が見えず、老人ばかりになる。社会は活気がなくなると思いますけれど、それは人口減そのものの影響というよりは人口構成の不均衡がもたらすものです。
前に、あるカルチャーセンターに出講した時に、そこの人から「うちは遠くから通われる熱心なご高齢の方が多く、100歳を越えた方もいらっしゃいますよ」と言われたことがあります。「悪いけどそれ、ビジネスとしては先がないということですよ」と申し上げました。高齢者が総人口のボリュームゾーンになると、しばらくは高齢者をターゲットにしたビジネスが繁昌しますけれど、これは時限爆弾みたいなものです。タイムリミットがある。今の男性週刊誌は高齢者対象の媒体になっていて、「70歳からのセックス」を特集し、60年代のアイドルのヌードなんかで売ってますけれど、ある時点で読者層そのものが消失してしまう。
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団塊世代が介護の現場に与えるインパクトとは
――2024年には「団塊の世代」がすべて75歳以上になります。
1950年生まれの僕もその一番端っこにいるからよく分かりますけれど、団塊の世代はとにかく数が多い上に、同質性が高くて、かつ態度がでかいんですよね(笑)。生まれてからずっと日本社会において最大の年齢集団だったわけですから当然ですけど。子どもの頃からつねにマーケットの方が僕たちのニーズを追いかけてくれた。僕らの世代に受けたらビッグビジネスになるんですから。だから、どうしてもわがままになる。自分たちのやりたいことをやっていると、世間がついてきてくれる。他の世代との協調性がなくて、自分勝手な集団がそのまま後期高齢者になるわけですからね、介護・医療の現場の方々に多大なご苦労ご迷惑をかけることになるのではないかと心配です。介護・看護の現場はとにかく仕事がハードなうえ低賃金ですから、離職率が高い。介護職員は2025年に必要数に対して約40万人不足すると予測されています。今からよほどきちんと制度を設計し直さないと、介護の現場は立ち行かなくなると思います。
制度の手直しだけでは間に合いません。一人一人が高齢者になっても自立的な生活ができるような自己訓練が必要だと思います。若い時から、自分で料理を作ったり、家事をしたり、育児をしてきた人は、自分が高齢者になっても、なんとか自立的な生活ができますし、介護されるような場合でも、介護者の気持がある程度わかると思います。だから、介護者とのコミュニケーションが取れるし、他の高齢者たちとの共生もできる。でも、若い時からずっと仕事漬けで、家事も育児も介護もしたことがないという男性の場合は高齢者になった時に、ほんとうに手に負えなくなると思います。生活能力が低すぎて。
高齢者にとって最も大切な生活能力は、他人と共生する能力です。理解も共感もできない他人とも何とか折り合いをつけることのできる力です。不愉快な隣人たちと限られた資源を分かち合い、共生できる力です。でも、そういう能力を開発する教育プログラムは日本の学校にはありません。ひたすら子どもたちを競争的な環境に放り込んで、相対的な優劣を競わせてきた。その同学齢集団のラットレースで競争相手を蹴落とすことで出世するシステムの中で生きてきた人間に高い生活能力を期待することは難しいです。
大量の「幼児的な老人たち」をどうするか
――これからは高齢者層もまた社会的な成熟が求められる時代ということですね。
いや、申し訳ないけど60歳過ぎてから市民的成熟を遂げることは不可能です。悪いけど、大人になる人はもうとっくに大人になってます。その年まで大人になれなかった人は正直に言って、外側は老人で中身はガキという「老いた幼児」になるしかない。同世代の老人たちを見ても、いろいろ苦労を経て、人間に深みが出てきたなと感服することって、ほとんどないですから。これから日本が直面する最大の社会的難問はこの大量の「幼児的な老人たち」がそれなりに自尊感情を維持しながら、愉快な生活を送ってもらうためにどうすればいいのかということですね。これは国家的な課題といって過言ではないと思います。
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危機的な状況になぜ対応できないのか
――気が遠くなるようなタスクですね。
でもこの「幼児的な老人」の群れは日本人が戦後70年かけて作り込んできたものですからね、誰を恨むわけにもゆかない。戦後社会は「対米従属を通じての対米自立」というそれなりに明確な国家的な目標があったわけです。そして、この国家戦略は市民ひとりひとりが成熟した個人になることによってではなく、同質性の高いマスを形成することで達成されるとみんな信じていた。その方が確かに作業効率がいいし、組織管理もし易い。消費行動も斉一的だから、大量生産・大量流通・大量消費というビジネスモデルにとっては都合がよかった。だから、国策的に同質性の異様に高い集団を作ってきた。でも、こういう同質性の高い集団というのは、「この道しかない」というタイプの斉一的な行動を取ることには向いているんですけれど、前代未聞の状況が次々と到来するという危機的な状況には対応できない。そのつどの変化に即応して、「プランA」がダメなら「プランB」という臨機応変のリスクヘッジは、多様な才能、多様な素質をもった個人が「ばらけて」いることでしか果たせないからです。でも、多様性豊かな国民を育成するという方向には戦後日本社会はほとんど関心を持たなかった。
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金儲けと人間的成熟のリンケージが切れてしまった
――本書のなかで、本来「経済活動の本質は人間の成熟を支援するためのシステム」だと指摘しています。なぜ、戦後日本人の経済活動は、市民的成熟と結びつかなかったのでしょうか。
本にも書きましたが、経済活動というのは、恒常的な交換のサイクルを創り出し、それを維持することを通じて、人間の成熟を支援するための仕組みです。交換活動を安定的に行うためにはまず市場、交通路、通信網を整備し、共通の言語・通貨・度量衡・商道徳などを作り出さなければなりません。交換活動の安定的で信頼できるプレイヤーとして認められるためには、約束を守る、嘘をつかない、利益を独占しないといった人間的資質を具えている必要がある。
トロブリアンド諸島の「クラ交易」では、交換される貝殻にはほとんど使用価値がありません。でも、その無価値なものを安定的に交換し続けるためには、さまざまな人間的能力の開発が求められる。詳細は本文に譲りますけれど、クラ交易のプレイヤーに登録されるためには、「良い人」「信頼できる人」であることが必要です。大人でなければ、この交換事業には参与できない。そのように制度が作られている。
でも、高度経済成長期以後、日本では金儲けの能力と人間的成熟の間のリンケージは切れてしまった。子どもでも嘘つきでもエゴイストでも、勢いに乗れば経済的に成功できた。でも、プレイヤーに市民的成熟を要求しない経済活動というのは、人類学的には経済活動ではないんです。無意味だから。そんなのはただの時間潰しのゲームに過ぎない。そんなゲームは人類が生き延びてゆく上では何の意味もない。
もうひとつ、戦後日本の場合、近隣国から「エコノミック・アニマル」と蔑まれるほど必死に経済活動をしていましたけれど、あれは実はアメリカを相手に「経済戦争」をしていたんです。敗戦国となり、国家主権を失い、アメリカの属国身分にまで落ちたけれど、経済的に成功して、国際社会で重きをなすことを通じて、アメリカの支配から脱出しようとしていたんです。高度成長期の日本人は「そこまでして金持ちになりたいか?」というような異常な働き方をしましたけれど、あれは単に金が欲しかっただけではなくて、「経済大国になって、アメリカからイーブンパートナーとして認められ、国家主権を金で買い戻す」という国家戦略にもドライブされていた。とにかく「今度は経済でアメリカに勝つ」ということについては国民の間の暗黙の合意があったと思います。
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国際社会でまったく人望のなかった日本
――経済力にナショナルプライドを求めたわけですね。
そうです。ただの強欲ではないんです。お金儲けの先にあったのは国家主権の回復です。国際社会における威信の回復です。それが国民的悲願だった。ですから、その時期の経済活動には一本筋が通っていた。でも、バブル崩壊で「金で国家主権を買い戻す」という壮大なプランが破綻し、追い討ちをかけるように、2005年の国連安保理常任理事国入りにほとんど支持が集まらなかったというトラウマ的経験があって、日本人は一気に自信を失ってしまった。
――目標の100カ国支持には遠く及ばず、共同提案国は30カ国程度にとどまりました。
アジアではブータンとモルディブとアフガニスタンの3国しか支持してくれなかった。日本はアジア、アフリカにODAをばらまいていましたから、それらの国々からはそれなりに信頼され、期待されていると思い込んでいたけれど、実はまったく人望がなかった。金はあるけれど、政治的にはただのアメリカの属国に過ぎないと思われていた。国際問題について日本に固有の見識なり、独自のビジョンがあるとは誰も思っていなかった。「日本が常任理事国になってもアメリカの票が一票増えるだけだから、意味がない」という指摘に、日本政府は一言も反論できなかった。戦後60年ひたすら対米従属に勤しむことで日本は国力をつけて、国際社会で重要なプレイヤーになったつもりでいたわけですけれど、まさに「ひたすら対米従属に勤しんできた」がゆえに、世界中のどこの国からも一人前の主権国家だとは思われなくなっていた。まことに悲劇的なことでした。
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ここ十数年の日本の迷走は、このショックがずっと尾を引いているせいだと思います。92年のバブル崩壊で「金で国家主権を買い戻す」というプランが崩れ、2005年の常任理事国入りプランが水泡に帰して、経済大国としても、政治大国としても、国際社会の中で果たすべき仕事がなくなってしまった。
「失われた20年」と言いますけれど、日本が中国に抜かれて43年間維持してきた世界第2位の経済大国のポジションを失ったのは2010年のことです。バブル崩壊から20年近く、日本はそれでも世界第2位の金持ち国家だったんです。でも、その儲けた金をどのような国家的目標のために使うべきなのかが分からなくなってしまった。「腑抜け」のようになったビジネスマンの間から、「自分さえよければそれでいい。国のことなんか知るかよ」というタイプの「グローバリスト」が登場してきて、それがビジネスマンのデフォルトになって一層国力は衰微していった。それが今に至る流れだと思います。
――なるほど。
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国民的目標を見失った「エコノミック・アニマル」
経済って結局は人間が動かしているんです。システムが自存しているわけじゃない。生きた人がシステムに生気を供給してゆかないと、どんな経済システムもいずれ枯死してしまう。経済システムが健全で活気あるものであるためには、その活動を通じて人間が成熟するような仕組みであること、せめてその活動を通じて国民的な希望が賦活されていることが必須なんです。だから、「エコノミック・アニマル」と罵られた高度経済成長期のビジネスマンも、ベンツ乗って、アルマーニ着て、ドンペリ抜いていたバブル期のおじさんたちも自分たちが国家的な目標を達成すべく経済活動をしているのだという正当化ができた。「オレたちはただ金儲けしているわけじゃないよ。お国のために戦っているんだ」という大義名分を自分でもある程度は信じていた。だから、マンハッタンのロックフェラーセンターを買ったり、コロンビア映画を買ったり、フランスでシャトーを買ったり、イタリアでワイナリーを買ったりしていたけれど、あれは「われわれは金で欲しいものはすべて買えるくらいに偉大な国になったんだ」と舞い上がっていたんです。
でも、そういう増上慢も今から思うと「可憐」だったと思います。今の日本には「オレがビジネスをしているのは、日本の国威発揚と国力増進のためだ」と本気で思っているような「お花畑」な企業経営者はいやしません。国民的目標を見失った「エコノミック・アニマル」はただのアニマルになるしかない。金儲けの目標が自己利益と自己威信の増大だけでは、人間たいした知恵も湧きません。何のために経済活動をするのか、その目標を見失ったので、何をやってもうまくゆかず、どんどん落ち目になっている。悲しい話ですよ。
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日本は人口減少社会のトップランナー
――「失われた20年」を経て、いま日本人が希望をもてる道筋とはなんでしょうか。
国民的な目標として何を設定するか、まことに悩ましいところです。ダウンサイジング論や平田オリザさんの「下り坂をそろそろと下る」という新しいライフスタイルの提案は、その場しのぎの対処療法ではなく、人口減少社会の長期的なロードマップを示していると思います。先進国中で最初に、人類史上はじめての超高齢化・超少子化社会に突入するわけですから、日本は、世界初の実験事例を提供できるんです。人口減少社会を破綻させずにどうやってソフトランディングさせるのか。その手立てをトップランナーとして世界に発信する機会が与えられた。そう考えればいいと思います。その有用な前例を示すのが日本に与えられた世界史的責務だと思います。
これから日本が闘うのは長期後退戦です。それをどう機嫌よく闘うのか、そこが勘所だと思います。やりようによっては後退戦だって楽しく闘えるんです。高い士気を保ち、世界史的使命を背中に負いながら堂々と後退戦を闘いましょうというのが僕からの提案です。
「内田樹が語る貧困問題」に続く
内田 樹(編)
2018年4月27日 発売