藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

コロナの暴露(3)

*[次の世代に]"質"中心になれるか。
実に40年前、高校生の終わりごろから居酒屋でアルバイトを始めた。
確か時給600円だった。
そしてその職場にいた自分は明確に「一分に10円が貯金箱に入ってくる」イメージを持っていた。
頭の中で"チャリーン"と音がしていた。
"そこに一分居れば必ず10円もらえる場所にいること"が何とも不思議な感じだった。
 
大学生を経て社会人になり、今度は固定給と残業代という給与制度に入ることになった。
そこで感じたのはなぜだろう、強烈に「自分が時間で飼われている」と言う感覚だった。
学生時代よりは、仕事が質的なものになっていたからかもしれない。
自分が何をどの程度やっても固定給と残業代のみが使われる、ということに不条理さを覚えたのである。
社会では、未だに「時間単価」を基準にする傾向がある。
欧米ですら結果的には「時間あたり50ドルとか100ドル」そんな単位で話をしている。
 
人の仕事を図る上で、時間は無視できないものではあるけれど、決して「時間ありきで仕事の質や成果を図る」べきではない。
そしてこの問題はいまだ解決していない。
コロナ騒動でいろいろな「これまでの当たり前」が疑われ、替わろうとしている。
これからAIが発達し、人の仕事の質がどんどん細く評価できるようになってくると、ようやく自分たちは「時間軸」から完全に解放される時がくるのではないだろうか。
 
昔の人たちは、時給で労働の対価を支払っていたらしいよ、というのが昔話になればいいと思っている。