*[次の世代に]リスク取る人、取らぬ人。
昨日「"今の自分のこれから"をどうしていくのかは自分次第」と書いた。
今の状態からエスケイプしてしまう、というのも一つだし。
さらなる修行に旅立つ自分を選んでもいい。
そうして「楽を取るか苦をとるか」という時のモチベーションは、一体なんだろうか。
どんどんチャレンジを止めて、逃げて、楽な方に行けばいいはずではないか。
それを、そうさせないのは「結局自分のため」なのだと思う。
組織のためとか、将来のためとか、自分たちは色々理由をつけて説明したがるけれど、それは自分のためだ。
つまり「進んで火中の栗を拾う」のは自分のため、なのではないだろうか。
これはイソップ童話が元で、猿に煽(おだ)てられた猫が栗を拾って大火傷をし、肝心の栗は猿に食べられてしまった、という戒めのお話だ。
でもそれでいいのだ。
自分は栗の実を得られなくとも、そして煽てられての酔狂でも「そういう行為にチャレンジした」という猫は、恐らくその後地域のボスにでもなったに違いない。
もちろん煽った猿は、一生小物のままであろう。
あえて家中の栗を拾い、何かを経験しにいく。
小利口に立ち回らない、そういう"見切り"が今の時代には必要なのではないだろうか。
「急がば回れ」は今でも不朽の名言だ。