藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

それでいいのだ

*[次の世代に]リスク取る人、取らぬ人。

昨日「"今の自分のこれから"をどうしていくのかは自分次第」と書いた。

今の状態からエスケイプしてしまう、というのも一つだし。

さらなる修行に旅立つ自分を選んでもいい。

そうして「楽を取るか苦をとるか」という時のモチベーションは、一体なんだろうか。

 どんどんチャレンジを止めて、逃げて、楽な方に行けばいいはずではないか。

それを、そうさせないのは「結局自分のため」なのだと思う。

組織のためとか、将来のためとか、自分たちは色々理由をつけて説明したがるけれど、それは自分のためだ。

つまり「進んで火中の栗を拾う」のは自分のため、なのではないだろうか。

 これはイソップ童話が元で、猿に煽(おだ)てられた猫が栗を拾って大火傷をし、肝心の栗は猿に食べられてしまった、という戒めのお話だ。

でもそれでいいのだ。

自分は栗の実を得られなくとも、そして煽てられての酔狂でも「そういう行為にチャレンジした」という猫は、恐らくその後地域のボスにでもなったに違いない。 

 もちろん煽った猿は、一生小物のままであろう。

 

あえて家中の栗を拾い、何かを経験しにいく。 

小利口に立ち回らない、そういう"見切り"が今の時代には必要なのではないだろうか。

 

急がば回れ」は今でも不朽の名言だ。