藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

言葉は、体験の集積。

日本語と英語で意味のズレるものにはよく出会う。
chemistry、が「相性」なんて、ごく最近知った。(汗)


が、もっと怪しいなのは母国語かも知れぬ。

自分のweb辞書の履歴より。

gooの辞書はなかなか充実しており、お世話になっている。
「履歴」ボタンを見つけ、押してみる。


〈過去の検索語〉

−意味を調べたもの
姑息
逡巡
漂泊
手なぐさみ
いぶか{訝}る



−語源を調べたもの
誤謬(ごびゅう)
畢竟(ひっきょう)
ていたらく
うつつ(意味と漢字)
イキに感ず(漢字)

〈答え〉

姑息。(間に合わせ、の意。〝卑怯〟といった意味はない。)
逡巡。(単にぐずぐずしていること)
漂泊。(生業につかず、さまようこと)
手なぐさみ。(博打の意)
いぶか{訝}る(不審に思う。おぼつかなく思う。)


〈語源など〉

誤謬。(誤り、の意だが、一見正しいようで、誤っている推理、詭弁)
畢竟。(ひっきょう。畢も竟も終わる、の意)
ていたらく。(「体たり」から変化)
うつつ。(現。目が覚めている状態)
意気に感ず。(粋ではない)


これら、外国の友人や小中学生に相手に聞かれ、困ったものばかり。
あらためて「うつつ、ってなに?」と聞かれウッと詰まる。


正確に説明できない言葉を、よくもこれだけ「雰囲気で」使っているものだ、と呆れていたら、
なかなか納得のいく理屈に出会う。

言葉は体験の記憶。

茂木健一郎さんの著書より

私たちは、母国語の意味を、いちいち辞書を引いて調べるわけではありません。
人生のいろいろな局面でその言葉が使われたエピソードを集積して、その中から言葉の意味を抽出するのです。
「ひらめき脳・p123-4より」

なるほど!と。


その「シーン」と「ふさわしい言葉」を何度も体験することによって、
「言葉」と「意味」の関係を刷り込んで、TPOに応じて、使うと。

トランプのカードを切ってるようなものか。


確かにそうだ。「あ」という文字を見ても、ただの幾何学模様である。


そう聞いてから、自分の日本語が曖昧なことに、妙に納得する日が続いている。(浮)


先日のこと。


e君「藤野さん。先方はすべからく譲歩する、と言ってます。ウチの全面勝利です!」
自分「ホウホウ、すべからく…、ね」


「フンフン」と相槌を打ちながら、携帯を手に。


e君「携帯なんかいじって。興味ないんですか!」


「あ、ごめん」
(でもe君、すべからくは、「当然に」って意味らしい。「全面的に」じゃないみたいだヨ。)



携帯でweb辞書を引くのは、多少の誤解がつきまとうのだ。