藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

理屈を超えるもの。

人は理性ではなく、情緒で生きている生物だという。
実際、いかに論理的に正しく見えても、それが感情とか、「勘」とかいった説明不能なもの、によって違った方向に意思決定され、しかもそれが功を奏した、という例には枚挙にいとまがない。

まだまだ我われは、自分たちは「言葉で完全に説明しつくす」という域には達していないようである。
無類に信頼している友人、とか
掛け値なしに信頼しているパートナー、とかいう世界はまだいいが、ことビジネスの世界になると、互いに「駆け引き、とか交渉とか」は当り前になってくる。


そこでも、実は大事なのは"人間性と表現されるもの"なのかな、と最近思うようになった。
社会人になってこれまで20余年、善人、悪人、普通人、仕事を通して実に色々な人と出会い、またそういう自分も色んな人に「自らを曝け出して」来た(と思う)。

自分の浅はかな、利己心は、相手に透けて見えていることも多かったろうし、また相手のあざとさに嫌気がさすこともしばしばだった。

表面的な商売の付き合いだけなら「お互い利益の取りあいさ」ということで、特に支障もないのだが、それが「パートナー」という存在となるとそうはいかない。


つまり、「その友人と共にビジネスし、永く付き合う」というのなら、相手を見誤るのは不幸である。
そんな「この人と付き合うべきかどうか」というシチュエーションは、実は割合簡単に判断ができるのである。

まず「自分の側に下心はないか」ということ。
この場合の下心とは、互いにメリットがある、という以上に「相手を出し抜く」とか、「実は利益をシェアするつもりなど毛頭ない」という、実に下卑た話のことである。

もし、自分にそんな「下心」があって、それを消去できないなら、およそまともなパートナーは見つからないだろう。


そして虚心坦懐。
下心が自分になく、相手を見てみると、今度は"相手の心が透けて見える"のである。
自分がニュートラルに「相手との共栄」を願って相手を見れば、およそチンケな相手の下心はたちどころに見抜けるものである。


自分もかつて「一心同体で」とジョイントしたパートナーと破談したことがあるが、そこには「まず自らの潔さありき」ではなく、相手と過ごす中、いつしか相手の猜疑心に反応し、次第に「自らの中に疑念を芽生えさせて」いたということに気づいた。
何があろうと、自らの誠意を貫き通す、ということが出来なかったのだ。

「そんな人のいいことでは、ビジネスなどできない」というのは浅薄な"上っ面商売の話"だと思う。
本当に「パートナー」と言える人との関係を作っていくには、「まず自分から虚心になりきれるか」ということではないかと思う。
まあ自らの"邪心との葛藤"と言えばいいか。
そこで貫き通せた関係は、後々まで得難いものになるだろう。


相手がとことんまで信用できるかどうか、という問いは、すなわち「自分がとことんその姿勢を示し続けるか」ということに全くつながっている。
友人とか、異性のパートナーとかとの関係に悩む時には、相手の下心を邪推する前に、「まず自分の心根を自らに問うてみる」というのが一番の道筋ではないだろうか。
人の自我とは、つくづく厄介なものである。