藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

愛読書。


google著作権者が最後のせめぎ合い。

「グーグルは著作権切れの古書や絶版本をデータベース化する「図書館プロジェクト」を進めている。
反発した米出版界や作家などが集団訴訟を起こし、昨年秋には和解案が成立した。
閲覧サービスによる収入の63%を著作権者に配分し、無断でデータベース化した場合は著作権者に一点あたり60ドルを支払う。」


と、要はこういうことだ。
ネットの「検索性」を最大のメリットとして、これを推し進めてゆくことに、既存の著作者たちは反対できるだろうか。
大きな流れ、として「受け入れながら」さらなる自分たちの著作の付加価値を追求するのが時代の趨勢だろう。


本当に何度も反芻し、手元に置いておきたい作品は、いくらネットで閲覧せども、結局自分の本棚に並べたくなるものだ。
作家としては、まあその辺りを目指すべきではないか、と思う。

それでこの辺りの言説でもっとも共感するのは内田樹さん。

常に「自ら」をその水際にさらし、そこで真偽を問う、という潔さが共感の理由か。
自ら「著作権放棄」というそのスタイルは、これからの著作物の在り方、いや著作権法の存在にも一石を投じている、と感じる。

『だが、何度も書いているように、私たちは全員が「無償のテクストを読む」というところから長い読者人生をスタートする。』

著作。
作家という存在そのものへの挑戦。
そんな時代に合わせた、アグレッシブな試みか。
ともかく、googleはじめ、これからのオープン化に立ち向かう試みに、どうしても賛成したい気がする。
何か、体制や権力への反感があるのかも知れぬ。


利害を超えて、そんな開放化に肩入れしたいのである。


<内田ブログより>
書物について - 内田樹の研究室

「従来の考え方を、根底から変えなければならない時代が、すぐ目の前に迫っている」と私も思う。
鉄道が電化されれば蒸気機関車が不要になるように、橋がかかれば渡し船が不要になるように、テクノロジーの進歩はその代償として必ず「それまで存在した仕事」を奪う。
「紙の本の印税だけによって生計を立てる」という生き方はこのあとかなりむずかしくなるだろう(今でも十分にむずかしいが)。
だが、それは圧倒的な利便性を提供するテクノロジーを導入することの代償として受け容れざるを得ないのではないか。


「音楽だけで生計を立てる」こと「芝居で生計を立てること」を望んでいる人は今もたくさんいるが、ほとんどの人はそれを実現できていない。
「食えないなら止める」という人は止めて、「食えなくてもやる」という人だけが残ってゲームを続ける。


文芸家もそれと同じだろう。


それに、著作権者の相当数は「それで食っている」専門家ではなく、著作権の継承者である。
ご自身の本業は他にあって、「紙の本の印税だけで生計を立て」ているわけではない。
もし、自分は何も働かず、親族の残した著作権からの収益だけで暮らしている人がいたとして、その既得権がそれほど優先的に配慮されるべきものだと私は思わない。
というような私の主張を想定してかもしれないけれど、パンフレットには次のような文言があった。


「大学研究者の中には、著作権そのものへの意識が希薄な人々が多いことも、問題を拡散させる一つの原因になっています。大学教授などの研究者は、大学から給料と研究費を貰っていて、それだけで生活も研究もできます。


たまに本を出してもそこから利益を得るのではなく、むしろ多くの人々に読んでもらえればうれしいという発想しかありません。
他の研究者が引用したり言及したりしてくれると、それが研究者としての実績にもなるので、自分の著作や論文がネットで検索できるのは大歓迎ということになります。」


これは私のことを書いているのか・・・という気がするのは別に私の被害妄想ではなく、この問題について先日東京新聞が記事を書いたとき、「著作権を守れ」側を代表して三田誠広日本文藝家協会副理事長が、「パブリックドメイン」側を代表して私がコメントを寄せていたからである。
私は決して「著作権への意識が希薄」ではないと思う。


どちらかというと、そのことに敏感である。だからこそ、著作権の管理を協会に委ねず、自分でしているのである。
ご存じのように、私はネット上で公開した自分のテクストについては「著作権放棄」を宣言している。


私の書いたことをそのままご自分の名前で発表していただいて、原稿料なり印税収入なりを得られても結構ですと宣言しているのである(まだ試みた人はおられないが)。
それは私にとって書くことの目的が生計を立てるではなく、一人でも多くの人に自分の考えや感じ方を共有してもらうことだからである。


もし私の書いていることの中にわずかなりとも世界の成り立ちや人間のあり方についての掬すべき知見が含まれているなら、それについて私が「これは私のものだ」と著作権を言い立て、「勝手に使うな」というのはことの筋目が違っているだろう。
それに私が「大学教授」であるのもあと2年のことである。
その後はもう給料も研究費ももらえない。


でも、たぶんその後も私は研究を続けるだろうし、著作も書き続けるだろう(たぶん今よりハイペースで)。
それは私は中学生のときから一貫して、「一人でも多くの読者に書いたことを読んで欲しい」と思ってきたからである。


職業が変わったくらいで、このマインドは変わらない。
問題は大学教授であるか専業作家であるかという「立場の違い」ではなくて、「マインドの違い」だと思う。


著作権からの収益が確保されないなら、一切テクストの公開を許さないという人はそうされればよいと思う。
それによってその人のテクストへのアクセスが相対的に困難になり、その人の才能や知見が私たちの共有財産となる可能性も損なわれても、そんなことは著作権保護に比べれば副次的なことにすぎないというなら、仕方がない。


だが、何度も書いているように、私たちは全員が「無償のテクストを読む」というところから長い読者人生をスタートする。


これに例外はない。
誰かがどこかで買ってきて、もののはずみで私の手元に届いた「無償のテクスト」を読むところから始めて、私たちは「有償のテクスト」を蔵書として私有する読者に育ってゆく。
書籍を購入して、私有し、書架に並べたいという欲望はリテラシーのある読者にしか生じないし、リテラシーは膨大な量の「無償のテクスト」を読み散らす経験を通じてしか育たない。


この点について有効な反証が提示されない限り、私は「有償のテクスト」が生き残るために「無償のテクスト」へのアクセスが容易になることが必ず不利に働くという考え方に同意できないのである。


私たちが無償で読めるテクストを選好するのは、それが「膨大な量の読書」を可能にしてくれるからである。
なぜ私たちが「膨大な量の読書」を望むかといえば、それだけが高いリテラシーを涵養する唯一の方法だからである。


そして高いリテラシーを涵養することを願うのはそれによって読書から無限の快楽を引き出すことが可能になるからである。
だとすれば、無償で読めるテクストが量的に増大することは、リテラシーの高い読者を生み出すことに資することはあっても、それを妨げることになるはずはない。

「グーグル図書館」に困惑 著作権の扱い不透明、削除要請へ
 ネット上で書籍の内容を閲覧・検索できる米グーグルのサービスが日本でも波紋を広げている。
著作権侵害を訴えていた米出版界と同社との間で昨秋に和解案が固まったが、その当事者に日本の作家や出版社も含まれる可能性があるためだ。
和解案を受け入れるかどうかを決める期限は5月5日に迫っている。
作家ら約2500人で構成する日本文芸家協会は会員に対し、和解したうえでデータベースから著作物の削除を求める手続きを取るよう勧めている。


グーグルは著作権切れの古書や絶版本をデータベース化する「図書館プロジェクト」を進めている。
反発した米出版界や作家などが集団訴訟を起こし、昨年秋には和解案が成立した。
閲覧サービスによる収入の63%を著作権者に配分し、無断でデータベース化した場合は著作権者に一点あたり60ドルを支払う。