藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

成長を欲しない教養の時代へ。


朝日のコラムを見ていてハタと気付く。
民主党自民党みんなの党も。
共産党ですら。

「経済成長ゼロでいこう」とは言わない。

それは、「政治が経済を成長させる責任がある」という暗黙の民意があり、政治家もまた、それが「実現できるのだ」という芝居をしているのではないだろうか。


もっとベーシックに言えば、失業したり、給料やボーナスが下がったり、地方の商店街が廃れるのは、これみな政治のせいである。というステレオタイプがあると思うのである。
確かに優れたアナリストたちの分析は正しいのだと思う。

官僚が作り上げた(もっと言えばアメリカが敗戦国に移植した)中央集権の仕組みと、大きな政府(公務員)の構造、そして何よりも予算配分を統べるという「超巨大な利権」。

そのほかにも外交上の技術の巧拙とか、市場の構造についての規制とか、影響のある部分は確かに存在するのだろう。

だけど、一番に「しんなり」してしまったのは、もう戦後のことを知らない自分たちの世代ではないかと思うのだ。

50才以下。
あるいは55才以下か。

もう「経済的なこと」が、(サバイバルしてゆくことも含めて)「第一のテーマではなくなってしまった世代」である。

ニートが出現するのは、大雑把にいってその存在が許されるからではないか。
失業者にいきわたる仕事は、本当に日本中にはもう存在しないのだろうか。
新聞配達から、皿洗い、農業、漁業、林業、製造業を含めて。

えり好みしているだけではないか。


どうも自分にはそうは思えない。
自分たちが思い描く、「毎日ネクタイを締めて、週休二日で、残業は全部稼げて、携帯電話と電子メールでサクサクするような仕事」だけが減っているのではないか。
自分にはNHKで特集されるような、中小零細企業や、辺境の医師や、まじめな農家に仕事がない、という風にはどうしても思えない。

そして、「そんな仕事」を用意するのは政治家の責任だろう、という構図は選挙の時に最大にフレームアップされる。

政治家は見えない大量の有権者に対し「雇用を拡大します!経済を回復させます!」と連呼することになる。


大衆がそれを望むから。
これは大衆による一種の強迫であろう。
そんな雰囲気の中で、「もう政治だけに頼るのはやめて」などといえば袋叩きに遭うだろう。


ちょっと取りつく端緒がなかなか見いだせないけれど、

・マイナス成長時代に、その前提で「どこにどれくらいの仕事」が生み出せるのか、日本中の仕事の棚卸ができないものだろうか。
・そして同時に地方ごとに本当の地場の力で、どれくらいの経済にできるかを考え、
・そして同時に税制全体のことを設計する。


今は経済の不況と、それの改善を政治家、官僚、国民の三者が盥(たらい)回しにしているだけではないのか、というのが率直な感覚である。


asahi.comより>

口先だけの成長戦略
注目された参院選も終わった。選挙期間中、消費税に焦点があたったが、各党は公約で高めの成長率を目標に掲げ、国民の関心を引き付けることにも苦慮していた。
例えば名目成長率で、民主党は3%、自民党は4%、みんなの党は4%以上、国民新党にいたっては5%以上と公約していた。
ある党の党首などは、これまで日本は低い成長しか達成できなかったのが問題だと、こき下ろし、高い成長率にするべきだとまくし立てていた。

 問題は、口先だけの成長率の列挙に終わっていることである。日本人である限り、これまでもできるだけ高い成長率を望んできた。
しかしながらバブル崩壊後、様々な政策を発動したが、残念ながらそれが実現できなかったのだ。
事実、GDPの数値が確定した2008年以前の10年間の名目成長率の平均はマイナス1.9%にすぎない。


 この過去の経験値からいえば、日本経済が急速に好転する確率は小さく、各党の3〜5%などの目標はあまりに無責任過ぎるといえよう。
肝心なのは、どのような手段でこのような高い成長を達成できるのか、各政党は何も応えていないことである。
たしかに民主党は新成長戦略を公表した。
しかし、その内容は各省庁に丸投げした総花的なアイデア集であり、それぞれの政策の優先度もつけず、限られた財源をどこに集中させるかも定かでない。

 更に問題なのは、高めの成長率に税収の自然増を織り込み、増税不要論と結びつける発想があることだ。
財政再建の税収見積もりには、これまでの趨勢(すうせい)からゼロの名目成長率を前提とすべきであろう。
仮に成長が高まり税収増になったら借金の返済に充てたらよい。(安曇野