コンピテンシーという言葉が使われ始めたのは自分が社会人になりたてのころだったか。
そして近ごろよく成功とは何だろうか、と考える。
当時は全てが「その当時の成功という価値観」にターゲットが絞られていたようだった。
今にして、それは「自分の価値観に沿った生き方」なのかなぁなどと思う。
ということは、日本のこれまでの高度成長期のように、かなり寡占的に多くの人が「より富を持つこと」イコール"成功"というのは、時代を映す現象であり、そして最近のように"低エネルギー"とか"エコ"とかが取り上げられるのは、やはり時代の流れなのである。
今でも「儲け主義」「守銭奴」などと言われる人は、まだそんな時代の価値観の変化に乗っていない、いや与していない人なわけで、別に謗られるようなことでもないと思う。
日本人は歴史的に統治が中央で支配されていたから、どうも価値観の多様化ということがあまり進まなかったのではないか。
類まれな「均質観」だけれど、それもそんな特殊な環境が作り出したあやなのだ。つまり
初めて、しかも最も近代の戦争において、これまた徹底的に敗戦する、という一大事が起こったので、その後に「全く均質な」国民的価値観が出来上がったのに違いない。
生来持っていた国民性、というものもあるのだろうが、いわゆる「一億総中流」とか「ベンチャーの出にくい性質」とか「ヒーロー不在(あるいはイチロー現象)」などの現象はそんな単なる「戦後現象」でしかなく、また国民が飢えることのほとんどなくなった現在以降、"これまでになかった価値観"が雨後のタケノコのように出てくるのではないだろうか。
日本人にオリジナリティーがないとは考えにくい、と思う。
価値観の多様化はこれから
一足先に経済成長を追わず、足るを知って自らの楽しみを「人間的な成長」「内面的な研鑽」にシフトしている人は、時代を先取りしている人であり、これからの我われのロールモデル(お手本)の一つである。
そんな「多様化する生活観」こそが、成熟した社会の結果であり、だからこそ「政治的」には"一意で統一しにくい"けれど、そういうバラバラな意見が個別に出始めて、「さらにそれらが集約されるところ」こそ本当の民主主義の出番なのではないだろうかと思う。
「課題先進国」と言われるようになった日本は、また民主主義の価値観においても「一番乗り」であり、一旦はサイレントマジョリティで、"衆愚"といわれた国民が、今度こそ本当に自国について考え始める機会なのだという気がする。
これまでは「体制を割る」ような持論など敢えて封印してきた自分たちが、「これこそ国のため」と本当に意識して、いよいよ本当に政治に参加し始めるのではないか。
いつまでも日本人は"物言わぬ人々である"というのは、この戦後の一時のことではないかと思う。
不平ではなく、自国の意見を示す。
いよいよ、そんな日本人でありたいと思う。