藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

日本人と天変地異。

松岡正剛氏曰く。
日本人の暮らしは「天変地異を半ば身にまとってきた」という。
確かにそうかもしれない。
この度の津波もそうだが、その気になって調べてみると、天災の災厄に苛まれた歴史はとても長い。
日本人の「神頼み」とか「無為自然」などは、そんな"仕方のない現実"をも受け入れて、これからを前向きに生きようとするための生きる知恵なのかもしれない。

実は、有事は平時の中に埋め込まれているのです。
昔の人はよく、家の中にいても表が妙に騒がしいとか、今日の風は変に生ぬるいとか、有事の前触れを察知するような感性を備えていました。
道家もつねにそうした気配の変化を察知する訓練をした。
ところが、今の人たちは、賞味期限切れだから食べたら危ないとか、マグニチュード3なら大したことないとか、誰かのお墨付きやレベル設定がないと危険か安心かの判断がつかないようになってしまった。
そういうものが、自らの内に仏がおわす感覚の喪失と相まって、この時代を追いつめているのでしょうね。

スーパーで買った食べ物がまだ食べられるかどうか、を多くの人は「自らの目と鼻」では判断できなくなっている。
「安全と危険」という重要な要素を、自分たちは「外出し」してしまっているのだろうか。

安心立命と無常感。

仏教は「安心立命」の一語に言い尽くされます。
安心と、自分の命がそこにあることは輩(ともがら)であり、命あるところに仏はおわします。
その実感をなんとか取り戻すことです。
そして「無常迅速」、常ならざるものは有為転変が早いと心得る。
何が起きても、それはあり得ることなのだという無常観を心に常備するのも大事でしょう。

そして、「若いうちに仏教に触れ、親しむこと」について。

自分の力で立ち上がるのも大事だけれど、他者の中に潜んでいる力に何かを委ねて、動ける自分になることです。
翻って、自分の内なる他力を自ら進んで人々に与えることに進みたい。それを大乗仏教では菩薩(ぼさつ)道と呼びます。

「他者の中に潜んでいる力に何かを委ねて、動ける自分になる。」とは何とも含蓄の深い言葉である。
そんなことが、自ら意識しながら可能なのだろうか。
まったく自分の「あざとさ」を排して他力を借りられるのなら、それはもう本人の能力なのだろう。

昔から「神は立つもの、仏は座るもの」と言うけれど、神や仏を素直に受けとめられる感性は若い世代のほうが持っている。だから、仏に親しみ、仏教に学ぶ機会をなるべく早いうちから与えてあげるとよいと思います。

結局、年老いて「しがらみ」を十分に味わった後に、自らの経験に照らして「神仏」のぜひを考えるというのが、大人の最たる特徴だということである。
まったく比べる尺度を自らに持たない若者が、翻って「実は普遍的な尺度を持つ」ということは、結果「先入観」やステレオタイプがいかに人の価値観をじゃまにするか、ということを指摘している。

実際、過去の経験はは最大のメジャーであり、しかし「そのメジャーを超える考え」の最大の障壁になっている。
既存の試行を超えてのブレイクスルーというのは、それほど"バカなことをリアルに想像する力"なのに違いない。
もう少し、そうした「超越思考」について考えてみたいと思う。

天変地異を身にまとって暮らす日本人
―― 日本人と仏教の関係に、このたびの大震災は影響を与えたでしょうか。

火山列島の日本には地震津波も台風も襲ってきます。しかも、建物は石でなく木と紙で造られてきたからすぐ壊れるし、すぐ焼けます。で、また造り直す。大小さまざまの天変地異を半ば身にまとって日本人は暮らしてきたわけですね。
そういう国の仏教は、大陸の風土に沿うインドや中国とは異なって当然でしょう。例えば幾重もの災難をくぐり抜けた仏像などは、本来あった金物が落ち、木がほつれ、彩色があせていても、それほど過酷な歴史の中で私たちを見守り続けてくれたのだという感慨を、観(み)る者に抱かせます。

―― 災害の苦しみからの救いが、日本では仏教の主要な目的たりえたと。

鎮護国家仏教として渡来したそもそもは、都の大きな寺で修行僧たちが国の安泰を祈願しました。中世以降、漢文の経典が仮名で読めたり、仮名法語が普及するようになると、誰でも念仏を唱えたりしながら仏の救いを求めるようになった。つまり「祈りの仏教」から「救いの仏教」へ、修行を通じて確信する仏教から、一人ひとりが身近に携える仏教へと変遷していったのです。私の言葉で言うと、仏教の「ポータビリティ」が高まって、人々が災害に見舞われた際も、それぞれの胸の内、心の中に仏がおわす感覚を持てるようになったのだろうと思います。

どんなことも起こり得るという無常観
―― 今の時代は、その感覚からむしろ遠ざかってしまっているのでは?

現代の日本人は「有事」ということを大仰に捉えますが、実は、有事は平時の中に埋め込まれているのです。昔の人はよく、家の中にいても表が妙に騒がしいとか、今日の風は変に生ぬるいとか、有事の前触れを察知するような感性を備えていました。武道家もつねにそうした気配の変化を察知する訓練をした。ところが、今の人たちは、賞味期限切れだから食べたら危ないとか、マグニチュード3なら大したことないとか、誰かのお墨付きやレベル設定がないと危険か安心かの判断がつかないようになってしまった。そういうものが、自らの内に仏がおわす感覚の喪失と相まって、この時代を追いつめているのでしょうね。

―― そこを打開する何かヒントがありますか。

仏教は「安心立命」の一語に言い尽くされます。安心と、自分の命がそこにあることは輩(ともがら)であり、命あるところに仏はおわします。その実感をなんとか取り戻すことです。そして「無常迅速」、常ならざるものは有為転変が早いと心得る。何が起きても、それはあり得ることなのだという無常観を心に常備するのも大事でしょう。

―― 書評の大家としての視点から、仏教の本の読み方や選び方に助言を。

お坊さんや信仰者など、いわばプロの方が書いた仏教書と、プロではないが信仰の同伴者ともいうべき方が記録した本を両方読むのがお勧めです。また、新たな流派を築いた開祖や流祖の逸話には、救いや安心のヒントが具体的に示されていることが多い。そして、これからの震災復興を念頭に置けば、仏教の扱う自力(じりき)と他力(たりき)の相互関係を説いた書籍なども、もっと注目されてよいと思います。


若いうちにこそ仏に親しみ、仏教に学べ
―― 自力でも、他力だけでも人は生きられない、その「相互編集」が必要だとご著書で説かれています。

自分の力で立ち上がるのも大事だけれど、他者の中に潜んでいる力に何かを委ねて、動ける自分になることです。翻って、自分の内なる他力を自ら進んで人々に与えることに進みたい。それを大乗仏教では菩薩(ぼさつ)道と呼びます。本来ならより上位の如来(にょらい)になれる力があるのに、あえて「誰かの役に立ちたい」「あの人のために生きよう」として菩薩の位置にとどまる。これが菩薩道ですが、仏教の中には、そのように一方的ではない、自力と他力の相互編集に基づいた教えがたくさん出てきて、これは世界の宗教にも類例を見ません。

―― 仏教を通じて安心や救いのヒントを得るのは、やはり熟年世代にこそふさわしい行いでしょうか。

世代が高くなるほど仏教との親和性が増すのは確かです。でも、大学で学生に仏教の話をして聞かせると、意外によく通じることがあります。17、18歳の年頃になれば自己確立を迫られるし、恋愛問題などもあって日々揺らいでいますからね。そういうさなかにブッダの生き方とか、他者や他力といった話が、わっと染み入るタイミングがあるのだと思っています。むしろ30代、40代で生活基盤が安定してくると、神や仏の祈りに心洗われるという思いにはなりにくくなるのかもしれません。

―― 被災地の復興支援ボランティアに参加して、人生の様々なきっかけを得る若者も少なくないと聞きます。

まさに他力の実践ですね。昔から「神は立つもの、仏は座るもの」と言うけれど、神や仏を素直に受けとめられる感性は若い世代のほうが持っている。だから、仏に親しみ、仏教に学ぶ機会をなるべく早いうちから与えてあげるとよいと思います。私としては、アジアの仏教と日本の仏教をつなげて考えたり、比較することも、是非すすめたいですね。

(撮影:児玉成一)