藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

基礎に戻る勇気。

評判の受験参考書にも、よく「中学レベルからやり直す」というキャッチフレーズの物があり、またあながちそれが的外れでもない。
人の見栄とか常識というのは、実はとても根拠のない物であり、「最短距離で目的地に着く」ということすらなかなかままらないものである。

音楽の先生の勧めで、どんどん基礎練習に戻りだしてはや四年。
ジャズを指向して始めたものの、ブラームスからショパン、ベートーベンからシューベルト、ベートーベンソナタは二桁から一桁へ。
そしてこの度は、バッハへと向かう。
思い起こせば、中学時代で中断したピアノのカリキュラムの「ポッキリ中断したそのものの処」へと向かっていることに気づく。

うーむ…
本当に何事にも王道はなく、ズルはできない。
きっちりと三十余年を経て、「勝手中断した続きの場」にただ立っている自分に気づく。(呆)
しかも、今度は十代のころと違い"自らの意思で"そこに立っている。
仁王立ちで立ち尽くしている感じ。

まあ人間てそんなものなのだろうと思う。
この辺りが年の功だろうか。
苦笑い。


さて、改めて二声のバッハと格闘している。
社会人になった時、コンピュータの構造についての研修を受けていて、「タスクの処理」というのがあったが、それと同様「マルチで物事を処理する」ということの難しさに今更ながら気付かされている。
(コンピュータも、ほんの数年前までは"シングルタスク"だったのだけれど)

右手と左手が別々の旋律を追いかける。さらに
右手の旋律に左手が伴奏し、
左手が旋律の時には、右手が伴奏する。

という、ただこれだけのことが酷く難しい。
というか、これまで弾いてきた数多の曲も、同様の構造を持っていたはずなのに、一体どうしたことか。

ひょっとして、いままで"何となく"弾いたつもりになっていた曲たちは、実は全然正しい形では演奏できていなかったのではないのか?
という絶望的な感覚になるくらい、基に戻っている感じが強いバッハなんである。

ところが、まあ憎らしいことに、右手と左手を分けながら、少しづつなぞっていると、これまた「少しづつ」何か曲の構成とか、作者の意図のようなものが分かってくるのが口惜しいやら、ちょっと嬉しいやら。

できれば、そんな感覚を学生時代に味わいたかったワイ、と思いつつも空き時間を見つけては徐(おもむろ)に片手づつの部分練習に勤(いそ)しむ中年男なのであった。(つづく)