藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

相対感で生きている自分。

各地で豪雨による大災害が起きている。
日常生活に突然起きる、まさに天災に逢うたびに、自分たちは「日々を生きることの普遍性」について思わずにはいられない。

今の若者は欲がない、と言われている。
人という生物として本当に「そういう欲求がない」ということではないと思うけれど、そういう欲望が発露してきていない、というのは事実なのだろう。

理由は飽食か。
昭和三十年代以降に生まれた人で、リアルに飢餓を感じた人は希少で、さらに戦争とか疫病で命の終わりを感じた人も少ないだろう。
だから「生命の危機感」が一定以上のレベルを超えないのは無理もないことだと思う。

苦労を知らない子供に「有り難味を知れ」というのはなかなか響かない。(のは自分自身でも検証済みであるし)
当り前なことだが「今の有難さを考える」というのは難しい。

そして宗教はそんなことのためにあるのかもしれない、と思う。
先祖を敬い、感謝し、またその宗派の教祖や現職の住職に薫陶を受ける。
葬祭の節目にはお経や弔いの言葉を掛けてもらう。

先祖に感謝し、聖書の普遍の物語を聞く、ということは「現実からは遠く離れた、ある種の(絶対的な)価値観へと導くメソッドなのに違いない。

つまり自分たちは「ギャップという刺激」がないとつい「現実のぬるま湯に浸る生き物」という事なのではないだろうか。