藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

自分を主軸に。

糸井さんのブログより。

「分刻みのスケジュール」なんておかしいんじゃないか。
 たくさんのことを要請されている売れっ子?
 いや、なんにも断れない奴隷の大将かもしれません。

分刻みのスケジュール。
そんな言葉が何か仕事をしている証しとか、「それそのもの」が自分で自分が充実していることの証左なのだ、と思う時代が自分にもあったなーと思い出す。

ただ忙しい、ということが時間も空白も埋めてしまい、まあ全体としては思考停止に近い状態を作り出す。

それでいて本人は頑張れているつもりだからしょうがない。
よく先輩に「頭が使えないのなら体を動かせ」と言われたこともあるけれど、そしてそれはそれで意味のあることだったとも思うのだけれど、やっぱりそこは「他人・外部ありきの自分」だったとも思う。

思えば本当に重要なことというのは、他人や外部との折衝に費やす時間ではなくて、「そこに至るまでの思考にある」という風に今は思う。
取るべき方針が決まって「いざ出陣」というのは、もうすでに作業にしか過ぎなくて、実はあまり重要なことではないのだ。もちろんその外部との作業が失敗すれば、そりゃ結果的には失敗になってしまうのだけれど。

大事なことは「体も動かさずに批評家している」のが一番よろしくないこと。
そして次に「体だけ動かしてりゃいいんじゃないよ」ということ。

普段は泰然としていて、"すわ"その時となれば音もなく速く動いている。まるで古武術の名人のような感じが理想的なのではないだろうか。
リーダーシップってそんなものではないかと思うのである。

・「分刻みのスケジュール」という言い方が、
 自慢のように使われていた時代もありました。
 いや、一部では、いまでもそうなのかもしれません。
 その人の存在が多くの人たちに求められている、
 ということを表わしているとも言えますから、
 みんなに求められている商品は、いい商品であると。
 そういう考え方になるのでしょうかね。
 
 ただ、これは考え方のひとつにしか過ぎないのであって、
 別の考えをする人からしたら、ばからしいとも言えます。
 スケジュールというのは、「相手」のためのものです。
 相手に迷惑をかけないように、その時間にそこに行く。
 もっとやわらかく言えば、
 相手によろこんでもらえるよう、その時間にそこに行く。
 相手が一人でも、何百人であっても何千人であっても、
 スケジュールの主人公は、相手なのです。
 「わたし」の自由にはならないわけです。
 そういうことが、「分刻み」で記されているとしたら、
 これは、自由からはほど遠い立場だということでしょう。
 
 たとえ、そういう状況をじぶんから選んだとしても、
 なんのために、なにを得るために、なにがうれしくて、
 「分刻みのスケジュール」になるまでの
 (不健康な)状況をつくってしまったのか?
 そういうふうに考えたら、
 自慢なんかにはならないと思えてくるでしょう。
 
 たとえそれが遊びだったとしても、
 「分刻みのスケジュール」なんておかしいんじゃないか。
 たくさんのことを要請されている売れっ子?
 いや、なんにも断れない奴隷の大将かもしれません。
 スケジュールなんて、一日にひとつでもふたつでも、
 あるかないかで生きているのが、ふつうだと思うんです。
 「えっ? そんなこと言ったら手帳が売れないですよ!」
 スケジュール以外に書いておきたいことが、
 いくらでもあるでしょう、
 相手の自由のためでなく、「わたし」のためのことが。
 見えない「相手」にしばられて生きている時間より、
 ここにいる、このじぶん自身が主役だと思うんです。
 パシリや下っ端の主役だって、主役なんだと思うんです。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
忙しいを自慢にしてると忙しいを養わなきゃならなくなる。