(ボクシングの観戦で)
そして、無意識で敵だと決めていたほうの選手を、
なんとか主人公にして試合を観ようとする。
これ、やってみるとわかるのだけれど、
ものすごくむつかしいんですよ。スポーツや勝負事はもちろんだけれど、
国会中継だとか、ニュースについても練習はできる。
だんだん技術が身につくとラブシーンでも、
異性の立場になれるような気がすることが、一瞬ある。
こういうことして、なんになるのかは、うまく言えない。
糸川英夫博士の提唱していた法則の一つに「デセンター」というものがある。
「センター」を移す(de)の意だが、これを意識して日常やってみるのはなかなか難しく、
だから文字通り、自分の頭(センター)を相手に移すのである。
自分たちはしばしば「相手を尊重して」「相手の立場に立って」という。
けれど、完全に相手の立場に立ってしまうと、それは「相手そのもの」と化してしまうわけで、そうなると無事に「こちら」に戻ってこられるかが怪しい(つまり「ミイラ取り」なわけですね)
かといって「少しだけ相手の目線になる」というのでは、相手の立場をちょっとは分かることができるかもしれないが、結局それでは当の自分に対しても真剣に対峙している、とは言い難いだろう。
「自分のことを考えながらも"完全な相手目線"でシミュレーションする能力だ。」
つまり究極に「自分自身は"冷静な場所"にいるという自信」が必要だ。
糸井さんの試みはそんな「意識移行」のためのトレーニングに違いない。
敵を味方に、味方を敵に。
男を女に。女を男に。
自在に意識の所在を操る、究極の思考法だと思う。
・手洗いとうがいに、人より気をつけていたつもりなのに、
ウイルス性胃腸炎になってしまった。
ふだん、病気らしい病気をしてないものだから、
寝てなきゃいけない状態になると、けっこうつらい。
いや、犬を見習って寝られるだけ寝てるだけですけどね。
疲れるほど寝るというのは、よくないことらしいけど、
ぼくには、たまには必要なことのように思う。
いまの、「眠くない」という時間、ひさしぶりだもの。
こんな日こそ、今日は原稿を休んだらどうだろうと、
高熱のあるうちはちょっと思ってもみたのだけれど、
熱がおさまるとやっぱり書くことになってしまう。
いままでに、手を変え品を変え、何度も書いてることを、
また言ってみたくなったので、それを書く。
ごく近くにいる乗組員にも、あきれられるのだけれど、
ぼくはとにかく「ひっくり返そうとする」。ボクシングの試合中継を観ているとき、
赤のコーナーの選手と、青のコーナーの選手、
基本的に無意識でどちらかに肩入れして観ているものだ。
そういう場合に、ぼくが応援してなかった選手を、
熱心に応援している観客がいるはずだ。
だいたい、ぼくはどうしてどちらかの選手に
「勝ってくれ」と願うのだろうか、と考える。
そして、無意識で敵だと決めていたほうの選手を、
なんとか主人公にして試合を観ようとする。
これ、やってみるとわかるのだけれど、
ものすごくむつかしいんですよ。
殴られて思わず「おうっ」と痛みを感じる瞬間が、
「よし、はいった!」に感じられるか、ということだし。
むつかしいけれど、しょっちゅうやっているうちに、
「瞬間的に、ひっくり返った」ということが起こるのだ。
ずっと、懲りずに練習をしていると、ちょっとできる。スポーツや勝負事はもちろんだけれど、
国会中継だとか、ニュースについても練習はできる。
だんだん技術が身につくとラブシーンでも、
異性の立場になれるような気がすることが、一瞬ある。
こういうことして、なんになるのかは、うまく言えない。今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
元気があれば、なんでもできるような気がする。気がする。