藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

オシャレ着もシェァ。


高額な服と廉価な服を着てみて、つくづく自分は本物のオシャレではないなぁ、と気づく。
あまり貧相ないでたちは嫌だが、それにしても根っからオシャレを考えたり、そうしたセンスには欠けているようだ。

例えば五万円のコートがあって、それが処分されるまでに100回使うとしたら、一回あたりは五百円の使用料だったことになる。
これが五十万円のコートなり、一回当たり五千円。
もし一回当たり五万円の洋服があれば、女性の(レンタルの)ウェディングドレスのクラスになる。

最近は物流網の発達が著しくて、日用品や書籍は翌日に多くのものが届くし、ネットでダウンロードできるものはその場で決済できる。

普段着は自分の手元に置いておくとして、いわゆる外出着は近い将来「近所の貸衣装屋さん」に出向いてそこでレンタルするようになるのではないだろうか。

明日はデートだ合コンだ、という時には自分の部屋のクローゼットを開けて思案するのではなく、近所の店で店員さんに相談しながら手早く外出着を探す。
「明日はちょっとくだけた感じで」とか「フォーマルな集まりなので」などと相談しながら三日間のレンタルをする。
メーカーから定期的に新作を揃えるお店もあるし、いろんな人が所有していた衣服を買い取るのもいいだろう。
中古品のレンタル店に過ぎないが、それが「地域の洋服ダンス」と化せばずい分趣も違ってくるのではないだろうか。
車が所有からシェアに変わってきているように「なんでもシェアの波」はアパレルにまで及ぶのではないか、というのが自分の予想だ。

車もレジャー用品も衣服だって、高級品はいずれ全てかがシェアの対象になるのではないだろうか。
消費者がその点に気がついて、物流網が整備できれば一気に身近なところにシェア精神は広がる。

そのうちアイデアとか、日常の手間仕事なんかもシェアされてくるに違いない。
効率社会はすぐそこまで来ているような気がする。