藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

伝える方法の選び方。

そもそも、別に勉強なんて出来なくとも「めっちゃ面白いやつ」というのはいつの時代にもいた。
またそれとは別に「書く文章がどうしようもなく面白いやつ」もいた。

さらに「描く漫画やイラストがトンでもなくうまいやつ」もいたけど、これはちょっと別か。
だいたいイラストレーターとか建築家とかになっているから。

「話すことと書くこと」は"即応性"という点で性質が異なる。
つまり話すことがうまい人、というのは「運動神経」のいい人なのだと思う。

その瞬間瞬間で、最適の、しかも一番インパクトが残るような会話ができる人たちは話の達人だ。
けれどその内容が「濃いかどうか」というのは別物だ。

一方「書き物の間達人」になるのは厄介だ。
書き物はその性質上、後世にずーっと残る。
露出の数も「話すメディア」と違ってずっと少ないから、たとえ新聞記事とかネットニュースでも"まな板"に乗せられる機会が多い。
つまりは「目に見えるところ」に永遠に残るのがテキストだ。

しっとりと落ち着いたDJの声に聞き入り、はじめて耳にする歌にどうしようもなく涙が流れ落ちる。

音声もテキストも。
どちらも人から人へ伝える"メディア"だけれど、その性質は正反対のように違っている。
けれどラジオやテレビも、雑誌や新書も「何か」を伝えるモチベーションがその核にある。
「メディアどうしの壁」を超えて、作家、作曲家、クリエーター、DJなどが融合する時代がすぐそこに来ているような気がする。

「どんな方法」で伝える側になるのか、ということがよりはっきりする時代になりそうだ。
自分の思いの主な表現方法を「どんなもの(メディア)にするか」ということは若いうちから考えておくべきだと思う。

ゴキゲンラジオ 東山彰良
 作家ということで、妙なプレッシャーをかけられることがある。ある事柄について、深遠なコメントを期待されるときだ。
北朝鮮がまたミサイルを日本海に撃ちこみましたが、東山先生、この件について如何(いかが)お考えですか?」
「あいつら、マジでムカつく」

このような返答では、如何なものかと思う。及第点にほど遠い。ここはやはり作家らしく、「彼らはああすることによって、外交の切り札をちらつかせているのですよ。アメリカとの駆け引きをすこしでも有利にしようとしとるんですなあ」などと、自分でも分かったようなよく分からんようなことを真顔で答えておくべきであろう。

わたしは常々思っているのだが、もし作家がなにかを質問されて即座に気の利いた返答ができるのなら、そもそもその人は作家なんぞやってないのではなかろうか。作家とは、自分の考えを文章にする商売だ。その文章は推敲(すいこう)に推敲を重ね、いろんな人に見てもらったあとで、ようやく世間様の目に触れることになる。テレビなんかで小賢(こざか)しいことをサクッと言える芸能人を見ていると、つくづく感心してしまう。わたしなんぞは逆さ吊(づ)りにされてトゲトゲの鞭(むち)でひっぱたかれたって、あのような面白いことはとても言えない。

しかし、別段うらやましいとも思わない。作家の性格はおおむね粘着質で、だからこそいつまでもひとつの文章をねちねちとこねくりまわしていられるのだ。句読点ひとつをどうするかでずっと悩んでいられる。わたしたちはそのようなことが得意だし、また愉快でもある。

作家はテレビに出ないほうがいいとわたしが思う理由のひとつは、まさにこの点にある。並み居るしゃべりのプロたちに混じって、まがりなりにも作家が頭角をあらわせる可能性など、万にひとつもない。せいぜいピラニアのように獰猛(どうもう)な芸能人たちに、寄ってたかって食い散らかされるのがおちだ。君子危うきに近寄らず。わたしはやはり分をわきまえ、孤独だけを友とし、狭くて乱雑な部屋で物語の深奥へと魂を逍遥(しょうよう)させるのが性に合っている。

そんなわたしだが、この度(たび)、なんと地元福岡のラジオパーソナリティを仰せつかったのである。いわゆる冠番組というやつだ。いったいなにが起こったんだ? しゃべりに自信のないわたしが、よりにもよってしゃべりだけで勝負するラジオ番組を持つなんて!

嗚呼(ああ)、ラジオに対するわたしの憧れは、それほどまでに強いということなのだ。ひとりぼっちの深夜に、ラジオで孤独をまぎらわせた経験のある方なら、わたしの想いをわかっていただけると思う。しっとりと落ち着いたDJの声に聞き入り、はじめて耳にする歌にどうしようもなく涙が流れ落ちる。そんな過日の記憶のなかで、わたしはいつだってラジオにこの世の真理を言い当てられたような気分になったものだった。

わたしはしゃべれもしなけりゃ、しっとりと落ち着いた声の持ち主でもない。選曲だってきっとずさんなものになるだろう。それでも、やってみようと思う。だって、わくわくするじゃないか。だれかがチャンネルを合わせて、わたしのつたないしゃべりに辛抱強く付き合ってくれる。そんなふうに思うだけで、わたしはやさしい気持ちになれるのだ。