藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

人と歌と音楽。

no music no lifeという人は周囲に意外と多い。
邦楽にも洋楽にも、クラシックにもポップスにもジャズにも全く興味がない人、というのはむしろ珍しいのではないだろうか。
数年前はi-Podに音楽をどれだけ溜めているか、というような感じだったけれどネットのおかげでずい分いろんな音楽が常時流せるようになった。
(なぜか行きつけの居酒屋はどこもJAZZが流れている。居酒屋とJAZZは相性がいいらしい)

 いろんな内容の歌がつくられているけれど、
 これを「歌う」ということで、
 じぶんがその内容を「うち」からの声として聞く。
 そして、歌われている内容と、じぶんが一体化していく。
 そういうすごい力を、歌は持っているんじゃないか、

歌を歌うのは人だけだ。
クジラとかイルカとか取りなんかも歌っているという説があるけれど、人が聞いてメロディっぽいのはやっぱり人の歌である。
歌の凄いところはメロディと言葉が同時に奏でられることだろう。
これがインストゥルメントルではこれほどのインパクトをもたらさない。
もちろんインストでもすごい音楽はありますが。
カラオケの隆盛も多分「言葉+メロディ」という最強の組み合わせにあるのではないだろうか。
新橋のおっちゃんでも「あーあ〜川の流れのよ〜ぉにぃ〜」と歌っているとなかなか聞かせるものがある。
それを歌いこんでいるプロの歌手は、なるほど人の心を揺さぶるわけである。

テキストだけでもすごい文章はあるし、打楽器や弦楽器のソロもいいけれどちょっと歌は反則な気分がする。
歌はズルい。

それにしても音楽が人に好かれる理由は何だろうか。
音程とか平均律とかコード和音などを編み出し、さまざまに組み合わせて自己表現し、楽しむことそのものが人の「知性の表れ」なのじゃないかしらん。

でこれまた、一たび自分が聴き手ではなく表現者サイドに回ると、絶望的にその"表現力の小ささ"に気付くことにもなる。
他人の感動を呼ぶ、というのはやっぱりすごいことなのだ。

・歌を歌うことは、すごい力を持っています。
 それは、歌の語りかけている内容が、
 「うち」から聞こえてくるからだ思うのです。
 
 例えば、「わたしは命を賭けてあなたを愛した」と、
 メロディと共に息として吐きだしたときに、
 その歌は、「わたし」の「からだの内側」から
 出てきた内容だと感じられるわけです。
 むろん、本気で、歌わなければそうならないでしょうが。
 
 実際に「命を賭けてあなたを愛した」かどうか、
 それは、どうだかはわからないとしても、
 こころをこめて、それを歌うと、そう思えてきます。
 事実よりも、そう思えたかどうかの記憶のほうが、
 ずっと強く残りますから、
 この歌を何度も歌いこんでいる「わたし」は、
 「あなた」という人を「命を賭けて愛した」
 という本気の思いで、その後の人生を生きられます。
 
 「天の神さまが、いつでもたすけてくれる」
 という歌をこころこめて歌っているときも、
 そのことばは、「うち」から聞こえてきます。
 歌う「わたし」、聞く「わたし」、共感する「わたし」が
 それぞれの立場で、「ことば」を強めてくれます。
 
 好きだということ、恨みたいこと、信じること、
 仲間を大切に思うこと、敵を憎むこと、
 暴力的に爆発したいと思うこと、
 いろんな内容の歌がつくられているけれど、
 これを「歌う」ということで、
 じぶんがその内容を「うち」からの声として聞く。
 そして、歌われている内容と、じぶんが一体化していく。
 そういうすごい力を、歌は持っているんじゃないか、
 というようなことを、ふと思ったんですよねぇ。
 
 歌の力を信じよう、とかは、よく言われることだけど、
 その力については、「よくも悪くも」という
 注釈付きで語られるべきことのように思います。
 愛する、憎む、つくる、こわす、もっとやれ‥‥。
 歌は、外から入って、「うち」から聞こえる魔法です。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
歌のすごさって、人のこころの持っているすごさなのかも。