藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

名人の真髄。

プロムナードよりジェーン・スーさんのコラム。
最近自分もラジオをよく聴くのだけれど、つくづく「伝えることの難しさ」ということを思う。

「伝える」は最も難しい。
「しゃべる」と「読む」は行為だが「伝える」は目的だ。
「しゃべる」では相手と時間を共有できるが「伝える」は相手の時間を拝借する。きちんと聞こえることが大前提で、音読の技量に加え、聞き手の環境や心持ちを察しながら話す力も必要となる。

いわゆるプレゼンだ。

無為にしゃべると腹に溜(た)まったコールタールが言外に漏れ出し「この人は自分に酔っているな」とか「強気なようで、自信がない」とか、隠したいことが先に伝わってしまう。主観を伝えるには主観を捨て、俯瞰(ふかん)で自分の皮を一枚ずつ剥ぐ作業が求められるのだ。

他人の声や表情ほど「読めて」しまうものはない。
特に女性は天才的だ。(だから男の嘘はほとんど通用しない)

それにしても記事後半の志の輔の落語のくだり。

目の前の志の輔さんは座布団に座り「しゃべって」いるように見えた。
次第に、口を開くたび体を動かすたび、頭のなかにどんどん映像が浮かんでくる。
そこでようやく、もう本題なのだと気付く。
すべての登場人物の顔は志の輔さんだが、どれも違う人に見えてしまう。
頭がどうかしてしまったのかと思った。

相手の頭の中の映像すら作ってしまう。
楽語の名人は"そういう人たち"なのだ。
撮影やCGで見せるものとは対極にあると思う。
ビジネスのプレゼンこそ落語に学ぶ必要があると思った。

「伝える」の先にあるもの ジェーン・スー

 ラジオパーソナリティという仕事に携わり六年になる。昨年の春からは平日の昼に帯番組を始め、ようやく「しゃべる」「読む」「伝える」の違いを体感するようになった。

 「しゃべる」が有効なのは、聞く相手と既知の関係にある場面だ。多少の気遣いは必要だが、思いついたことを、思いついた順に口にしても問題はない。あとから説明を加えたり、訂正したりが気楽にできる。しゃべり手の個性を消す必要はなく、むしろ声に乗る個性や情感が言葉以上に雄弁になる。「そうは言っても内心は違うことを考えているな」と伝わるのが「しゃべる」だ。つまり腹を探られたくない相手との会話で「しゃべって」はいけない。

 「読む」は読まれる原稿の存在が前提となる。そこには伝えるべき情報があり、読み手には音読の技術が求められる。個性は邪魔になることが多く、技術が伴わないと、読み手の抑揚や発音の癖ばかりが耳に残って内容が入ってこない。

 「伝える」は最も難しい。「しゃべる」と「読む」は行為だが「伝える」は目的だ。「しゃべる」では相手と時間を共有できるが「伝える」は相手の時間を拝借する。きちんと聞こえることが大前提で、音読の技量に加え、聞き手の環境や心持ちを察しながら話す力も必要となる。

 ラジオという絵のないメディアでは、嘘を言うとすぐにばれてしまうのが恐ろしい。無為にしゃべると腹に溜(た)まったコールタールが言外に漏れ出し「この人は自分に酔っているな」とか「強気なようで、自信がない」とか、隠したいことが先に伝わってしまう。主観を伝えるには主観を捨て、俯瞰(ふかん)で自分の皮を一枚ずつ剥ぐ作業が求められるのだ。

 先日、仕事仲間に誘われ立川志の輔さんの独演会へ足を運んだ。恥ずかしながら落語についてはまるで無知で、始まる前は長丁場に耐えられるか不安だった。

 その日最後の演目は、志の輔さんの古典落語だった。帰宅後に調べたところ「井戸の茶碗(ちゃわん)」という演目。これがすこぶる面白い。まず、マクラと呼ばれる身近な話から演目への入りが滑らかで、つなぎ目がわからない。目の前の志の輔さんは座布団に座り「しゃべって」いるように見えた。次第に、口を開くたび体を動かすたび、頭のなかにどんどん映像が浮かんでくる。そこでようやく、もう本題なのだと気付く。すべての登場人物の顔は志の輔さんだが、どれも違う人に見えてしまう。頭がどうかしてしまったのかと思った。

 脳内にはひっきりなしに映像が流れるが、なにせ私に時代背景の知識がない。外国で作られた時代考証のない時代劇のような、頓珍漢(とんちんかん)な絵が浮かんでくる。これには参ったが、集中力は削(そ)がれなかった。むしろ、のめりこむほど残像のように登場人物が視界に留まるようになった。幻覚まで見えてしまったのだ。

 演目が終わり、舞台から志の輔さんが去った。時計を見ると一時間弱が経過していた。あっという間だった。知らない話なのに、わからないことがひとつもなかった。

 「伝える」の先には「引き込む」がある。果たして、引き込まれたから知らない話を理解できたのか、知らない話を伝える力が私を引き込んだのか。不意にパンドラの箱を開けてしまったようで身震いがした。底に希望が残っていれば良いのだが。

(コラムニスト)