藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

情報との間合い。

日経・春秋の孔子のエピソードより。

使いだすと、必ず機械に頼る仕事が増える。増えると、頼る心「機心」が生じ、とらわれる。

「振り回されるのはいやだ。…(後略)」

技術とか、その技術のもたらす"情報"という怪物に「息ができなるくらい」の息苦しさを感じることがある。
スマホを持っていない1日は「ゆるやかな時間」が流れる。
端末を持っている人たちは、数分に一度「情報チェック」を怠らない。
「そこに更新されたニュース類」があると思うとクセになるのだ。

何か、動物の実験で「常に一定の刺激を与え続ける」のにどこか似ている。
「刺激があるから反応する。」
「刺激があるかどうかを常に気にする。」
落ち着きはまるでない。

一時代前の人たちが想像もつかなかった「ネットの利便性」が、今は「人の落ち着いた思考」を奪っている。

そんな縮図が巷に見える。
賢い人はそんな"利便性"と"思考の時間"をうまく分けて使っているかもしれないが、多くの社会人たちは「刺激ありき」の空間に反応しているように思う。
意識的に「情報との距離感」を考えるべきではないだろうか。

春秋
 「なんと時代遅れな!」。孔子の愛弟子(まなでし)、子貢は驚いた。老人が井戸の中に入り甕で水をくんでいる。水を取り畑にまくなら、はね釣瓶(つるべ)という機械がある。声をかけたところ、知ってはいても使わないのだという。理由を聞き衝撃を受ける。「荘子」にある説話である。

▼老人は答えた。使いだすと、必ず機械に頼る仕事が増える。増えると、頼る心「機心」が生じ、とらわれる。「振り回されるのはいやだ。邪魔してくれるな」と、子貢は追い払われた。効率優先を説く先生の教えが揺らぐ気がしたそうだ。道具の発明以来、機心は広がり続ける。いまの社会は、機械なしでは立ちゆかない。

▼将棋のトップ棋士もとらわれたのか。対局中に電算ソフトを使った疑惑が浮上し、タイトル戦に混乱が起きている。アマチュアが集うオンライン対局サイトでは、機械が選ぶ一手を不正に使用する「ソフト指し」が横行する。将棋や囲碁は、脳力を競う伝統競技だが、この世界にも、機械に頼る心が浸透しつつあるようだ。

▼チェスでは早くからソフトが普及している。人間と機械のチーム同士の大会もできたが、人気がないという(米経済学者コーエン著「大格差」)。機械が幅をきかせすぎ、人間的興味が持てないからだろう。古代の老人みたいにはいかないが、機心に振り回されないよう気をつけないと、ゲームがますますつまらなくなる。