藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

SNSの理由。

日経プロムナードより。

自分が回り道をしてしまうのは、この気持ちのせいだろうか。枝分かれした別の道の先を、引き返せなくなるぎりぎりのところまで確かめに行く。

「横道にそれる」というけれど、自分もそのタイプだ。
「崖から落ちるかも」と思うギリギリにまでは「確かめに行く」。自分で確かめないとなぜか気が済まない。
好奇心旺盛とも言えるが、「余計なことしい」の典型だ。
年とともに本当に「いらんこと」は段々しなくなってきたけれど性質は変わらない。

実際に見ることは叶(かな)わない未来を惜しみつつ、おそらくは本当に進みたいと思っている道へと戻ってくる。
でも戻ってきても、別の道を歩んでいる感覚が、体に残っている。
そして、知人の誰かや、メディアやSNSで知る誰かの今に、僕自身がそうであったかもしれない未来像を重ね合わせる。

以前からSNSってなんであんなに流行っているのだろう、と思っていたけれど上田さんの言うような「他人の体験の共有」が本当の目的なのかもしれない。

赤の他人ではない「友人」が旅行したりイベントに参加している体験に"いいね!"をすることで共有した気分になる。

自分がSNSから撤退してしまったのは、そんな「体験の膨張」が息苦しく感じてしまったからかもしれない。

それにしても作家というのは文章がうまい。
だから作家なのか。
自分が、作家に最も作家を感じる文章はこんな感じだ。

僕がそうしているように、誰かが僕の文章を読んで、その人の回り道の先に想像した風景と重ねてくれたなら、寂しさも少し和らぐような気がする。

(プロムナード)回り道 上田岳弘
 日常生活においてせっかちな関西人気質の僕だが、どういうわけか、物事の進め方が回りくどいと言われることがよくある。「考えなしに事にあたるから手順が悪いのだ」と評されることもあるが、自己分析してみると、それだけではないように思う。僕の場合、「本筋と思われるものとは、むしろ真逆のことをすべし!」という直感がはじめに働くのだ。

 人生設計にしても、作家になろうと思ったのは幼い頃のことなのだが、高校時代のコース選択では迷わず理数科に進んだ。本当は、どちらかというと文系科目の方が得意だったのだ。大学の学部選びも、文学ではなく法学を選んだ。大学に入ってからも、今のうちに経験しておこう、と営業職のバイトに明け暮れた。同じ時期に、何かを書きたい欲求を満たそうとして、まずは小説ではなく論考を書き始めた。デカルトマキャベリウェーバーの真似(まね)ごとをしたその論考のタイトルは、『鉄と法、座標と温度』。これを2万字まで書き進めたあたりで、何か腑(ふ)に落ちるものがあった。「最終的に小説家になる前に」という前提付きで他の方向に走ることをやめ、僕はようやく小説に取り掛かった。

 ライフワークとして取り組みたいことは小説だと、早くから気付いていた。それなのに僕は、「小説を書くことが向いていない」可能性をつぶすために、青春時代の大半を費やした。この性分は一体何なのか。我ながら、実に回りくどいと思う。

 回り道といえば回り道。でも僕はきっと、回り道するのが好きなのだと思う。目的地に向けてがむしゃらに進むのが大事な時期もある。しかし、到着を先延ばしにしてでも、捨てざるを得ない可能性を、その萌芽(ほうが)だけでもいいから味わいたい。僕は欲張りなのかもしれない。

 高校時代に理系に進んだ時は、研究者になって未(いま)だ解明されていない自然科学的真実の探求に精を出す将来を想像した。法学部の大教室の講義ではウトウトして、弁護士になって裁判や示談のために折衝する夢を見た。営業のバイト中は、一般企業に就職して良い頃合いで結婚する自分を、論考を書き進めながら、文系の研究者になる自分をそれぞれ想像した。そうであったかもしれない未来たち。今のパターンしか選べなかったことがもどかしく、また寂しい。

 自分が回り道をしてしまうのは、この気持ちのせいだろうか。枝分かれした別の道の先を、引き返せなくなるぎりぎりのところまで確かめに行く。風の色や温度から、終着地の風景を想像する。実際に見ることは叶(かな)わない未来を惜しみつつ、おそらくは本当に進みたいと思っている道へと戻ってくる。でも戻ってきても、別の道を歩んでいる感覚が、体に残っている。そして、知人の誰かや、メディアやSNSで知る誰かの今に、僕自身がそうであったかもしれない未来像を重ね合わせる。

 「時があるのはすべてのことが一度に起こってしまわないよう、個があるのはすべてのことが一人に起こってしまわないよう」。そんな趣旨のことをある女性作家が書いていた。すべてのことが一時に一人に起こってしまったら、それは何もないのと同じことなのかもしれない。

 僕がそうしているように、誰かが僕の文章を読んで、その人の回り道の先に想像した風景と重ねてくれたなら、寂しさも少し和らぐような気がする。