*[次の世代に]オリンピックという方法。
開催しないと利権を失う、という理由で大会委員会やメディアや政治家などの「色んな力」が錯綜しているらしい。
もはや「何があろうと開催が目的」な大人たちの様子は、まるで妖怪が踊っているように見える。
妖怪に憑依された彼らは、もはや正気で「なんのために開催するのか」とか「そもそものスポーツとは何か」なんて考える力はない。
何せ「取り憑かれている」のだから。
彼らのような「利権のリーダー」というのは、元来こうした"憑き物"にとりつかれやすいものだ。
まさに妖怪。
古今東西、こうした「権力」とか「利権」とか「地位」とかに取り憑かれた人たちは数多い。
今の政治家にもそうした人は沢山いると思うが、物語の結論としては取り憑かれた人が最後は「非業の最期」を迎えて終わるパターンが常である。
そして思う。
紀元前1896年iに始まったという「(近代)オリンピックという方法」から数えて今年で125年。
いよいよ「競技の種目を決め、ルールに則りアスリートが勝敗を競う」というスタイルが終わるのではないだろうか。
ルールを決めて、「勝ち負けや記録を競う」というのは必ず「勝者とそれ以外」を生み出す。
多様性とかSDGsがこれからの概念になろうとする中、オリンピックはなぜかちょっと「古びた様式」にも思えてしまう。
今のゴタゴタは、"大人たちの妖怪戦争"に見えるが、実は「次の世界への過渡期の出来事」なのかもしれない。
「他人との競争」が目的ではなくなる時代が来るのでしょう。