藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

寓話のように(1)

*[ウェブ進化論]チャンスの姿と罠の姿。

昨日"チャンスになるきっかけ"は誰にも割合均等に訪れ、それを「まず掴むかやり過ごすか」ということと、そして「つかんだものを自分で磨いて」本物のチャンスにするかどうかだと書いた。

 

でそのチャンスは一体どんな姿をして自分たちの周りに現れるのだろうか。

おそらく最初は一見何気ない、寓話のようなボロ着をまとった老婆のような姿かもしれないし、そしてごく普通の出来事のようなナリをしているだろう。

実際には、知り合いの紹介でたまたま同席した人とか、元々知っていたけれど大して関心のなかった人とか。

そんな人たちの何かと「ふとしたきっかけ」で共鳴することがある。

その人の知らなかった趣味とか、生い立ちとかプライベートの過ごし方とか。

 

そんな「小さな共鳴」を見逃さずに興味を持ち、互いの理解を深めていくのだ。

そんな「小さなこと」はいくつか試してみても身を結ぶことは少ないだろう。

それこそ"千に三つ"くらいかもしれない。

それでも三つも見つかれば大したものだ。

「チャンスが三つもある」としたら、一つくらいは大チャンスに化ける可能性は十分にありそうだ。

だって最初はチャンスなど何もなかったのだから。

 

千に三つしか、ではなく三つもあるのだ。

(つづく)