一番大変なのは、そもそもやりたいことを見つけること、ではないか。
幼いころに飼った昆虫の生涯はどんなだったか。
そもそも「精一杯生きる」ということを自分たちはよく考える必要があるな、と思う。で。
平静になって自分は「人生で何かやりたいことは?」という暑苦しい設問に向き合ってみることになる。
と。
意外にない。(嘆)
例えば、幼時に大病をして、それが動機で医者になったFさん。
強烈な貧乏子沢山で、中学を出てから商売に励んだNさん。
離婚した母親の苦労を見て、母子家庭のNPOで活躍するIさん。
そんな友人たちには、強烈な動機が存在する。
つまり反力のような。
我われは、温室で「そのまま」育っていれば、あまり「生きる動機」みたいなものも持てないのかもしれない。
温室育ち、とはよく言ったものである。
反対に「何か大きな刺激を受けると、それをきっかけにいろいろと考え始める」というのは想像に難くない。
多くの若者が日常を無為に過ごしている。(ように見える)
大人は、それを批判する。が若者にはその真意は届かない。
それは若者は、ただひたすら若者であり、人生に習熟していないのだから、当ったり前なのである。
お互いの「立ち位置」が違うのだ。
話が逸れた。
時間の相対性。
何にも考えることがない。
悩みが特にない。
やらねばならないことも、取り立てて、ない。
そんな状態では「時間」は緩やかである。
時間が流れることそのものも意識の中にはないだろう。
いわゆる「負荷」のない状態である。
これだと意識はユルんでしまうだろうことは想像に難くない。
そんなユルユルの日常を、ちっとも勿体ない、などとセコいことを感じずに過ごすのは若者の特権である。
自分も相当そんな特権を行使してきた。(し過ぎたかも)
ただ。
「後から」やりたいことが出てきた場合には「ずい分と鷹揚な、いやムダな時間を過ごしてしまったなぁ」という誹りは免れない。
自分など、学生時代のそんなユルさを回顧すると、ちょっと目まいがする。(本当にするのです)
で、何が言いたいか。
もし自分で自分の将来を想像した場合。
もし「何か」将来やりたいことがありそうな予感、があるのであれば。
できれば日常の時間は一生懸命に使った方がいい。
時間の年少の濃さ、というか充実感というか。
ふわふわ、テレテレ過ごしていることの「独特の虚無感」が実感できるのは、数十年後なんである。
小言ではない。
よく自分探しなどと言う。
が、若い時分から「そんな感覚」は知っておいた方がいい。
いい大人もそんなテーマに悩み、苦しんだりするのである。
それを伝えておきたい。
で、私の自分探しはどうなったか、というと。
ようやくそんなことに思いが及び、お稽古ごとを始めたり、「そんな目」で事業のことを考えなおしたり、そんなことをし始めるようになった。(四十過ぎ)
年を経ないと、気づかないことがある。
でも年代を超えて、伝えられることもあると思うのである。
何にせよ「その瞬間」、時間は後悔せずに使いたいものである。