藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

武蔵野の逃げ水。追いかけてはいけない。


ますます失業率が上がり。
特に特色なく、さらに文科系の出身などだと、よほど就職に苦労するらしい。
かくいう自分も学生時代には「内定取り」に奔走していた一人ではないか。
ムリもない。と思う。


だがその頃より二十年余り経って見えてくるものは、「その奥」というか。
やはり本質論になるのである。
それから何十年も経ってみれば、結局そういうことかな、という諦観でもある。

就職相談。


少なからず、自分のところにも「内定が取れません」とか「どこの会社も今イチ。どこかいいところありませんか?」「私は何に向いていますか?」というような相談が舞い込む。
が、どれも皮相的に見えてし仕方ない(失礼ながら)。

オレぁ(アタシは)、内定さえ取りゃいいんだよ。
ともかく、入っちまえば、何とかなる。


そんな焦りがどうしても透けて見えてしまう。


「そこ」で冷静な目。


人間だれしも。
自分の最大の関心事、が自分の一番大事なこと、になる。
そのほかの「外の世界の問題」と比べて、絶対的に大きい問題か、小さいか、ということは関係ない。

自分にとっての最大の問題を、自分自身で決めて、勝手にそれを追いかける習性が我われにはある。(ということを肝に銘じる45才)

夏を過ぎて、いくつも会社に足を運び、幾度面接を受けても色よい返事がこなければ、焦る。
どんどん視野が狭くなり、もはや「業界とか業種とか職種とか」すら関係なくなり、まず内定、という心理状態になるのは珍しいことではない。
さてそこで、正義の御旗が「内定取り」になってしまえば、ミイラ取りのミイラである。


内定を取るためのhow to本を読み、練習し、「ふり」を必死に身につける。
ところが、良くしたもので企業の採用担当者には、そのあざとい思惑は、すぐに見抜かれてしまうものである。
「こいつ、仕事の内容どうこうよりは、内定取りに来ているな」と。


婚活も同じ。
「結婚」を目的にするからあざとい感じになる。
いくらやせ我慢でも、「結婚という方法も一つのプロセスである。」というスタンスがないと、「この人、ともかく結婚することしか眼中にないな」ということは一対一になれば分かるものだ。
だから遠のく。


離活も。
もう、ともかく別れてやろう、ということばかり考え、「そのため」のテクニックに執心すると、必ずしも上手くいかないのではないか、と思う。(想)

これもその「結果」だけが自己目的化しているからである。

最良の選択に中に離婚もある、という客観性があり、最終的に「お互いの取り得る最良のチョイス」がそうかもしれない、というニュートラルな姿勢がないと、ことのプロセスが歪んでしまうような気がするのだ。


ちょっと話が逸れたが、今の成果主義型の社会の中では、我われはとかく「結果」を求める。
誰の目にも明らかなものは確かに「ある結果」でもあるのだが、だからといってその「結果市場主義」で「結果を求める以外は何もない。」という状態は本末転倒。

『結果』はその先にあるもっともっと「遠大な何か」を追いかける過程の一シーンに過ぎない。


本当に重要なのはその「何か」である。
その「夢とか目標」をなしにして、就職とか、結婚とか…を求めることは、後々後悔を生む可能性も高い。

就職氷河期の今、今だからこそあえて「自分の本当にやりたいことは何か」というアプローチからの追求が大事なのだと思う。

急がば回れ
継続は力なり。