藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

立場を変えてみること。

もうこれまでも何度も書いた。
客観。


古くは糸川英夫博士の提唱した「デセンター」(センターを移す、という意の造語。相手と「頭の中身」を入れ替えるほどの意識で立場を変えよ、と説かれた)。
最近そのことをよく思う。


会議などではある人の問題提起があり、
それに対応するカウンターの人がおり、
そして外部からそれをコメントしたりジャッジしたりする人がおり、
またその場で結論を出さねばならない立場の人もいる。
その役割はは必ずしも一つで終わることはなく、論点や議題が変われば、お互いの立場は逆転したり、第三者になったりとクルクル変わる。


だんだん年を取ると、(特に自分のことを言われたらまだまだ平静ではいられないけど)ちょっと冷静な感じ。
で、自分の意見を熱く主張する人を見ると、「この人の立場だったらどうだろうか・・・」などとぼんやり考えるようになってきた。
ともすれば、自分がよい立場になろう、とか
言い訳しよう、とか
謝罪せねば、とか
こいつ、とっちめてやる、とかいうことばかりではなく。


何か「絶対ってないんだよなー」というふにゃふにゃした、そして心のどこかでニヤッとするような感覚が芽生える。

やってみて分かること。


「え??人の立場を尊重しろ??? んなこと言われなくたって分かってるよ!!!」と怒られそうだが。
意外に「今もし俺がコイツだったらなー」というイメージはなかなか「相手の心を自分と入れ替える」くらいの極端なイメージがないと難しいものである。


「今、自分は目の前のこの人なのだ」と思えたとたん。
「いやいや、そりゃムリもないなー」とか思えてくるのが不思議である。
「そりゃ怒るよなー」とか
「立場ないだろうなー」とか。


そして、いやいや、彼の言うのももっともで。とか
ふむふむ、中々に斬新なアイデアですな、とか
ははぁ、一筋縄ではいかないね、とか
原因は経営サイドにもあるねぇ、とか言ってて、ちっとも結論が出ない、というところに行きつく。


国連の事案会議のように、「各国の立場それぞれ」がくるくると分かるのは面白いが、まあ一方的に自己主張を通そうとせず、相手の視点を意識する、というのはなかなか頭の体操のようで面白い、ということを発見してしまった。


もうしばらく経過を観察してみます。