藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

脱時間給の誤謬。

高年収を対象にした成果給導入の議論が数年がかりで空転している。

ある程度の年になり、組織と言われるものの統括などをするようになると、必ずしも「自分自身の持論」を話さなくなってくる。
というか多分「立場上」というものの色彩が濃くなってくるのだろう。
政治家とか中でも族議員などはその典型。
もう「組織という得体の知れないもの」が人格を持って話しているくらい、ちょっとした気味悪さがある。
それを一人のリーダーが「あたかも自分の意見のように」話すものだから、どうにも気持ちが悪い感じがする。
時の首相は、国民の代表か、祖先の代表か、業界や経済界の代表か、欧米や中欧の代表か、はたまたそれらの一部分の属性を持つ人の代表なのか。
ただ母国民の代表で、利己的な追求ばかりすればいい、というのなら分かりやすいが関係者は多い。
実に多面的に物を見て、また主軸をはっきりして意見を構成しなければ、単にブレているとか、イデオロギーや一部業界人の利益誘導のように見られがちである。
マスコミも含め、その辺りの分析には論理的な聴力が必要だと思う。

「競争力の源泉は人材。創造力を十分発揮できる環境を整えるべきだ」(鈴木重也・経団連労働法制本部主幹)

という導入推進派。
そして

「働いているのは生身の人間だ。健康に働く仕組みをどう考えるのか」(新谷信幸・連合総合労働局長)

端から議論はかみ合っておらず、ヤジの応酬に近い。
お互い、所属団体の「主張の投げ合い」をしているだけでもう何年もが過ぎていく。
一方リアル社会では、実力を縁(よすが)に、残業代などという目盛りそのものに無関心であり、「労働を時間で計ること」に拒否感を抱く職種は数多い。
医師や弁護士、研究者、デザイナー、作家や芸術家、上級SEなど、すでに「時間軸など何の意味もない人たち」はかなり存在する。

そもそも自分自身が仕事の成果を「時間で計られたいか否か」で決めていくしかない問題である。
私は「時間重視」の人はそれはそれでいいと思っている。
時間などではない「目に見えにくい成果の濃さ」を敢えて選択し、ただただ公平に流れてゆく時間計というものに挑戦するかどうかは本人次第だろうと思う。
国が制度をいじって不毛な応酬巻き込むのではなく、外食産業であれ建築業であれコンサルタントであれ、両方選べるようにするのが本質である。

自分の経験で言えば、自給600円で働いていたバイト時代は時間が経つのが実にもどかしく、だから時間を意識するのではなく「同じ一時間のなかでどれだけのパフォーマンスが出せるか」といったことに関心の軸を持っていかざるを得なかったことを思い出す。
砂時計のように「ただ時間が過ぎるのを待つ」という自分自身の気持ちが、どうにも耐えがたい気がした。
制度は制度として残し、実際の運用はもっと高い志で行う、というのはどんな世界でも常識のオペレーションである。
リーダーたる政治家にこそ本質の理解が必要ではないだろうか。

「脱時間給」で委員真っ二つ…労政審で議論開始
高年収の高度専門職を対象に、労働時間ではなく、成果に応じて給料を支払う新たな雇用制度について、厚生労働相の諮問機関「労働政策審議会労働条件分科会」で7日、具体的な中身を詰める議論がスタートした。

6月の成長戦略に盛り込まれた「脱時間給」の労働規制の緩和策で、委員の中でも労使で意見が対立しており、議論は難航しそうだ。

 「競争力の源泉は人材。創造力を十分発揮できる環境を整えるべきだ」(鈴木重也・経団連労働法制本部主幹)

 「働いているのは生身の人間だ。健康に働く仕組みをどう考えるのか」(新谷信幸・連合総合労働局長)

 雇用制度が議題に上ると、意見は真っ二つに分かれた。使用者側は、グローバル化に対応するため、創造性を必要とする仕事が増えているとして導入を求めた。これに対し労働者側は、過労死が年間100人を超えており、長時間労働抑制に力を入れるべきだと強調した。

 成長戦略が、対象を年収1000万円以上の労働者としたことに「中小企業では全く活用できない」と線引き変更の要望が出されるなど、賛否双方の立場から様々な意見が相次いだ。