藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

散るため、ではなく。

日経より。

自分たち生物は、いずれ老化して一生を終える。
その当たり前のことをどう捉えるか。
ということなどが実に悩ましい。

むしろ過去最長の寿命を授かるようになって、一層今の人間たちは悩んでいるようだ。

花は散るからこそ美しい。
人も、私たちの営みはすべて死を意識することから中身を濃くしてきた。
少なくとも文学はそうだ。

長く生きようと思っても、20年くらいで寿命が尽きた人も多かった。
病気も戦争もあった。
「生きる時間」が長くなったから、ついに自分たちは「その意味を考える」ようになったのだろう。

「生」は「死」との対比により、一層鮮明になっていく。
生まれ落ちた時から「最後にどう向かっていくか」を考えることは最高の生産性を人生にもたらすかもしれない。
若い頃は"それ"が実感しにくいが、50を過ぎるとそれが間近に感じられてくるものだ。

年寄りが有利な点、というのはそういう臨場感のリアリテイなのに違いない。
生を濃く、というのは年寄りの秘技なのだ。

阿刀田高(29)座右の銘 花は散るために咲く 死を意識して、生を濃く

極論ではあろうが“人は自分自身について語るとき、それはつねに自慢話である"と私はこう放言する立場である。卑下したり失敗を語ったり、マイナス面を言うときも、これは裏返しの自慢であることが多い。

中編小説について講義する筆者

かくてこの“私の履歴書"も自慢のオン・パレード、私ももちろんその例に漏れない。開き直って、すなおに私のおいしい話を綴(つづ)ってみよう。

私の略歴を見た人から、

「初めから狙ってたんでしょ、小説家を」

と言われたことがあった。

私は大学の文学部で学び、図書館に勤務し、そこを退職してフリーとなり、間もなく直木賞を得ている。大学は早稲田大学の文学部で、ここは「石を投げると小説家志望に当たる」と言われるほど憧れを抱く人が多く、事実、多くの作家を輩出している。

卒業の後に勤めた図書館は給料をえて生活を保ちながら習作するに適している。頃あいを見て退職し、文学賞をえて作家となる、と確かに典型と言ってよいほどのコースを私は歩んでいる。

しかし、ちがうのだ。私は、そのつどそのつど、

――どうしよう、仕方ないか――

迷いもしたし、やむをえず行く道を決めたり、はっきりとした計画性とは縁遠かった。結果として幸運に恵まれ、帳尻が合ったようなものである。たくさん読書をしたのも病床のつれづれだったし、小説を書くことも注文を受けて初めて筆をとったのであり、若いころから志していたわけではなかった。小説家になる能力など、備わっていない、と思っていた。

読書好きも幼いころ言葉遊びに親しんだせい、と、このエッセイに綴ったが、これもよくわからない。短編小説をよく読んだのも病床で根気がなくなったせいと記したが、これも一生を顧みると、そうとばかり言い切れない。少しヘンテコな脳みそを持って生まれたせいかもしれない。

八十年を越える人生を振り返って“シンプル・イズ・ベスト"、簡単なものが好きなのである。食べ物はあまり手を加えず原材料をそのまま生かしたものが好みだ。衣服は単色が好きだし、住まいもシンプルで、飾り棚にいろいろ置くのは面倒くさくて厭(いや)である。読むのも書くのも短いのが好みで、それが持って生まれた私の脳みその特質らしい。

それにしても人間の脳みそとは、どういうものなのだろう。どんな特徴を持ち、それをどう育てたらよいのだろうか。自分のことを熟慮してみたが、わからない。案外、生まれつきあら筋は決まっていたのかもしれない。迷ったり選んだり努めたり、仕方なかったり、それもこれもみんな天与の定め……。そうなると、少し虚(むな)しい。

昨今は死を意識することも多く“花は散るために咲く"と勝手に箴言(しんげん)を創って座右に置いている。花は散るからこそ美しい。人も、私たちの営みはすべて死を意識することから中身を濃くしてきた。少なくとも文学はそうだ。AIは死ぬことができない。

――ざまあみろ――

ここにおいて人はAIより優れている。残された余生はこのあたりを考えよう。